誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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鈴木伸元『加害者家族』共感と想像力と好奇心

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鈴木伸元『加害者家族』幻冬舎(2010.11.27初版)

ルポルタージュの価値は、核心に迫ることではない。真実を伝えるとか、世論に訴えるとか、まして警鐘を鳴らすなんてことでもない。著者という責任主体者が、好奇心という野次馬根性といかに渡りあって、対決して、「落とし前」をつけるかだ。

人は、ある日を境に加害者の家族になる。

或る人「が」なるのではない。

 

しかし、特定の誰かがその加害者と家族になり、自分と自分たちはそこに絶対に含まれないと思っているから、ひとは平穏無事に暮らしていられる。

 

ひらべったく言えば、対岸の火事だからだ。

 

川の向こうでは加害者とその家族が火宅に焼かれている。助ける者などない。

 

それは、加害者とその家族が、私と私たちに含まれていないからだ。加害者自身はかろうじて塀の中が居場所かもしれない。その家族にはどこにもない。この社会には、加害者家族の居場所なんてどこにもない。そんなことがこの本には書いてある。

 

バッシングやいやがらせ。借金、失業、家族崩壊。思いつく限りのこの世の悲惨が加害者家族を襲う。これを、ひどいことだと憤慨するのは簡単だ。おせっかいにも被害者に成り代わって加害者とその家族を袋叩きにするのが、たやすいくらいに、たやすい。

 

想像力を働かせてみれば、犯罪者家族に対してどう接すればいいのか。実は誰にも分らない。千差万別の不幸には千差万別の結果とその過程があるはずで、冠婚葬祭を捌くようには捌けない。ただただ「分からない」という未決着の不安定がそこにあるだけだ。そうしてみれば、その不安定をかろうじて平衡するための生贄が、加害者の家族ではないかとさえ疑われる。

 

被害者に成り代わった正義。しかし、悪が人を堕とすように正義も人を堕とすのだ。悪に堕ちた者は悪を省みる日は来るかもしれないが、正義はけして自分の顔を見る日はこない。なぜなら、悪は行為だが、この正義は想像だけでできているから。

 

無責任な想像力でできた正義は、共感に転じやすい。共感とは、自分と他人の情動が同じだと思い込むことであり、均一化された共感が集まることを動員という。

 

マスコミ、インターネットによって動員された正義は、その暴力的な好奇心を振り回し振り回されて、その已むところを知らない。そしてそれら誰にも、何の責任もないのである。責任のない者たちが「責任」を求めて狂奔しているのである。

 

頼まれもしないのに動員の練習をしているようにも見える。

 

もちろん、この責任は、じつは読者にも突き付けられているはずのものだ。

 

たかが娯楽同然に読んだ暇つぶしでも、問われてはいるのである。答えるかどうか、少なくともその努力をするかどうかは各々ご本人次第であるにはしても。

 

加害者の家族。

この本を手に取る選択が、野次馬根性でなくてなんだろう。純粋な知的好奇心などと、まさか言うまい。

読後の後味の悪さ、ばつの悪さがこの本の「落とし前」のつけ方のようだ。