「プールサイド」。ひとことで言えば、ある種の身体論である。
こう書くと、何を言ったような気になるが、気のせいである。
少なくとも、本作は「論」として描かれていない。その描かれていないところから始めるしかなさそうだ。
算定される肉体
本作は、「彼」による年齢とその肉体を足し算と引き算で数えるところから始まる。
モノローグだ。
彼は平均的なひとにくらべて意志的であることを除けば、奇矯なところなどちょっと見当たらない。
彼の合理性は冷静そのものだ。しばしば、人生という、迷妄に暮れやすい時のうつろいを、時間に換算しなおす。算定可能な時間に。
しかしこれは、言いかえたほうがよいだろう。換算し直された時間が、彼に意思を与えているのだ。
35歳の春にして彼は人生の折りかえし点を曲がろうと決心した*1
※村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』講談社「プールサイド」より引用。
基本的な、彼の人生の算術は、現実的には水泳競技に比されている。
遠泳や、水難事故で無人島へと泳いでゆくそれでもなく、まして肩に銃をかついで渡河する兵士でもない。
彼は算術化された50メートルのプールを泳ぐ。どれほど長い距離であっても、その長さは彼によって再分割され、断片化された目標をひとつずつクリアすることで彼はトータルの目標を達成する。
自己啓発本というか、ビジネス書にありそうな、けれども現実的な方法のひとつだ。現実的すぎるんじゃないか。しかし少なくとも彼はそう考えている。算術的帰結は彼をひとつの結論に導く。
そしてこれで半分が終わったのだ。*2
※前掲書引用
もちろん、この「結論」は恣意的なものだ。彼じしんも、「折りかえし点」を40歳にすることもできると言っている。しかし「それでいいじゃないか」。
何番かはわからない「ブルックナーのシンフォニー」に比される「時間とエネルギーと才能の消耗」は、彼に「皮肉」で「奇妙」な「喜び」をもたらす。彼が、<折りかえし点>に分水嶺を定めて、みずからと妻との間に「あちら側」と「こちら側」という彼此を見出すとき、彼は「笑う」。声も立てずに。
問題らしい問題が見当たらないにも関わらず、彼は「消耗」しているのだ。
点検される肉体
誕生日の翌日、「朝の儀式」と彼が呼んでいるルーティンをこなすと、彼は脱衣室の鏡で、みずからの裸体を「点検」する。
まず髪、それから顔の肌、歯、顎、手、腹、脇腹、ペニス、睾丸、太股、足。
※前掲書引用
これらを彼は、リスト化し、数値化し、「点検」してゆく。
もちろん、この「点検」される肉体は、近代史のなかで、発見され、所有され、やがて支配されたそれだ。見いだされた<身体>が社会制度、国家、あるいは近代的自我に管理されてゆく過程を、近代と呼んでいるとも言える。象徴的な例がナチス・ドイツ。健全な肉体という容れ物とそれに規定される精神。
逆説的だが、精神が肉体を規定するわけではないのである。
これは、ナチス・ドイツが特異な思想を抱いていたわけではなく、近代になかば普遍的な制度と言うことができる。<身体>は制度のなかで、管理という抑圧のなかで測定可能になった「何か」なのである。そして、その「何か」が彼のモノローグを可能にしている。
近代の法概念は、身体を個人の所有に帰するとしたところから始まるが、ほんとうの意味で「個人」のものではないだろう。近代資本主義国家の要求がそれを求めているだけで、たとえば「健康」がそうである。労働者、国民、兵士は「健康」な身体でなければならない。そしてそれらは、「点検」可能なのである。
彼の「点検」も理路は整然としている。彼のモノローグのように。
過ちらしい過ちはなく、問題もない。ストイックと呼んでいいなら彼の肉体はストイックに管理されている。
老いる肉体
俺は老いているのだ。*3
※前掲所引用
小さな染みのように、彼はじしんの肉体に、「老い」を見出す。これは彼の理路では説明できないものだ。
誰しも老いる。やがて死ぬ。けれども、それを彼の理路は説明できない。
彼は「僕」に対して「老い」とその「死」は「恐怖」でも「苦痛」でもないと語る。「きちんと直面して闘うことのできないもの」と彼が拙く説明するものは、ほんとうは、「老い」と「死」の「恐怖」と「苦痛」でなければならないはずだ。
彼は社会的成功者である。
もちろんこの「社会的」には彼の結婚など、いわゆるプライベートも含む。公私の別というが、肉体が公私を分かつだろうか。スイム・ウエアを着用しているにしても、彼の肉体はプール・サイドに晒されている。
彼の理路と算術が、資本主義のなかで彼を成功に導いたことは、どうじに、彼の肉体を成功させたとも言える。
妻の他に恋人を作った彼は、「それを与えることができる*4」という言い方で、身体的欲求の快楽さえ「点検」してみせる。
「老い」と言う、若さに対置され、その喪失として語られる感傷がここで語られているわけではない。
ビリー・ジョエルの唄を聴きながら、彼は「泣く」が、これも肉体的反応にすぎない。ゆえに彼には「泣く理由なんて何ひとつない」と思われるのだ。
「老い」はそれがやがて何時は分からない「死」に続いている。肉体にその予兆は現れるが、それが何なのかはついにわからない。この「わからない」という不可知性から疎外されていることを、彼の肉体は把握できない。「老い」と「死」は算定されたり、「点検」できるものではないからだ。
彼のモノローグは「内面」の翻弄からは隔離されている。「内面」からは自由ですらある。よって感傷というあまりに「内面」的な出来事は彼には起こらないが、肉体からまでは自由になれない。
嗤うべきことだろうか。彼はじしんの話の「おかしみ」を、小説家である「僕」に見つけ出してほしいと願う。「僕」の反応は、あいまいである。
その「おかしみ」はずいぶんと残酷なものだからだ。