誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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村上春樹『今は亡き王女のための』暴かれる読み方

 

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村上春樹回転木馬のデッド・ヒート講談社(1985.10.15第一刷発行)より、もくじ

亡き王女のためのパヴァーヌ

「今は亡き王女のための」。タイトルはモーリス・ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』から採ったものだろう。ピアノ曲管弦楽曲。「亡き」とは失われた王女の宮廷のこと。字義の穿鑿になるが、王女が死んだわけではない。

暴かれる「読み方」

前三作までは「物語」を回復させようという目論見の「物語」であった。

本作はこれに比して言えば「小説」のような「小説」ということになりそうだ。

「僕」の語る話であり、ご丁寧なことにこの「僕」は「村上さん」と言うらしい。もちろん、「僕」が「村上さん」だからと言って「村上春樹」だとは書いていない。そして、「村上春樹」が個人名で呼称され、本人と識別される「村上春樹」だとも書いていない。ただ、読者は「僕」が「村上さん」であることを作中のなかばで唐突に知らされる。

筆者はとまどった。

「正確な意味での小説ではない」*1と作者によって告げられていたにも拘わらず、じぶんの馴致されたリテラシーが密かにこれら作品を「小説」のように「私小説」のように読んでいたその事実を、作者によって突きつけられた。そんな固有名詞であった。

これは、筆者が偉そうに「作者・読者の共犯関係」と称したひとつの実相ではないか。

それが嘘だと我と我みずからに言い聞かせながら、隠れた本心では本当だと信じて、まるで疑っていない、巧妙な自己韜晦。それは、じぶんの論理性をみずからはまるで信じておらず、陶酔のための感情を、じぶんでじぶんに隠しておくことではないか。

それが、この「村上さん」と軽やかに放り込まれた固有名詞によって暴かれた。

読者はこころの奥底で、勝手に描いた願望を、その恥ずべき読み方をしていた甘やかな戯れを、作者によって叶えられる。しかもその「小説」の内容は、「性」の「告白」である。主人公に同化して共感して我を失って読むこと、読まれることが想定された文章である。それ以外に読みようがない。

作中の女性登場人物である「彼女」にいたっては、その造形を、(a)(b)(c)に箇条書きにされ、「聡明そうで」「バイタリティーに満ちていて」「コケティッシュ」とまで纏められている。

「僕」に関しても友人からのスキーの誘いを「腕立て伏せにしか興味がない」と断る人物だと、ほか作品において、「僕」=「村上春樹」として読まれた人物造形を簡明化している。

これだけ道具立てがそろい、綴られる「小説」は、田山花袋『蒲団』そのものの「性」の「告白」である。道具立て、と言ったが、なんなら道具だけでもよいではないか、という露骨さすら、ある。

彼女の夫という人物

だしぬけに語られた「僕」の「告白」だが、「彼女の夫という人物」が作中に現れることで、入れ子状の物語形式が、依然、健在であることが示される。

「僕」が「村上さん」であることを読者に教えるのは彼、である。

「僕」が切り取った、人生における一断片のロマンスを、「平凡」な現実世界に引き取った人物と言っていい。因果応報とひとは言うが、ゆえの知れない悪に報われるのが「平凡」な人生である。不幸だけが、わずかに人生を象り、支えている。

「でも僕は個人的には今の家内の方が好きです」と彼は言った。

村上春樹回転木馬のデッド・ヒート』「今は亡き王女のための」より引用

彼だけが、かつての失われた王女の宮廷の後始末をつけ、飛散したロマンスの欠片に、ひどく傷つきながら、ともに暮らすことを選択した女性を「好き」だと言う。

小説的人生のはいりこむ余地のない現実の人生であり、その言語表出を「告白」と呼ぶなら、文学的もろもろの幻想とは無縁の「告白」である。

暴くところも、内面に拘泥することもなく、「平凡」なことを「平凡」なこととして受け止め、それとして生きる「告白」は、小説にはならない。「僕」の「告白」である前半はもしかすると「文学」かもしれないが、後段わずか一行の、彼女の夫の「告白」にはとうてい及ばない。それは「文学」などという浅ましいものではない。

彼女の夫と別れた「僕」は、追憶にひたりながら帰路の途中、「どうしようもなく混乱」するのは、文学が不可能である世界の存在と、じしんの乖離だろう。

 

今回はちょっと短いので、アルバムを一枚、取り上げる。

同曲の名盤は数えきれないくらいあるので、選べない。反田恭平というピアニストを筆者は詳しく知らないのだが、聴いてみたら、ちょっとどこから出てきたか分からないような世界観があって、面白い。感動的すぎやしないかとも思うが、それはそれで首尾一貫している。同アルバムのシューベルト「4つの即興曲」ほか、ドビュッシーシューマンショパンの小曲、のなかでは「亡き王女のためのパヴァーヌ」が一番よいのではないか。ラベル特有の可変性?というか曲の伸縮が不思議なひろがりを見せる。筆者、音楽を論ずる法を知らないのであしからず。


www.youtube.com

ラベル本人の演奏だと、聴き手が予断した演奏ではまるでない。甘さもない。緊迫した音の伸縮がある。思ったより瀟洒で、理知的な曲だ。 

 

*1:本書「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」より引用

読書術

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「読書術」こんなタイトルの記事や書籍は多い。どれも素晴らしい内容が記してあると思う。読んだことはないから思うだけではある。

早わかり、なんてのも多い。結論をはじめに言うが、人間は早わからないものである。

早くわかれば、早く忘れる。また覚えられると言うか。懲りないやつだな。

読者をやつ呼ばわりしてはいけないが、すぐにわかりたいという願望の切れ端に、好奇心があることは認めよう。そして、自身では意識していないが、願望には思ったよりも切実なものが芥子粒ほどは混じっていることも認めよう。

昔のひとは、読書百遍義自ずからあわらる、と言った。これは頭の良いひとの場合だ。筆者のごときは、百遍くらいじゃわからない。わからないから脇に逸れる。そこでもまた、わからない、に出くわす。そのうち、わかる、とは何かを考える。これは書物には書いていない。書いてあるのは他人の、わかった、である。筆者には関係ない。これは、創造、捏造、妄想、世迷言、寝言、主張、哲学、へんてこ論などを堂々巡りして、たぶん、こんなことじゃないかしらと、おずおず思うものだ。それで、それでもわからないものだ。

ノートに取れとか、メモを作れとか、ペンを万年筆をつかえ、というのは文房具屋さんの営業である。生活がかかっている。ただ一冊一本あれば事足りる。そこまで協力しなくていい。

ちなみにこの作文はスマホを使っているから、それさえ要らない。

本だって、実はそんなにたくさん要らない。ほっておくと悪貨が良貨を駆逐するからたまには新刊も買う。

本は原則、頭から読む約束だが、中ほどから読んだ方がわかりがいいものもある。もくじがあればこれも見る。良書なら、全編の地図になっているはずだ。結論がくだらない本は読むに及ばず。買う前に、ちらと横目に見ておくべきだ。

筆者もつい使ってしまうが「〇〇的」を乱発していれば、たぶん作者の頭が悪い。

ひっかかるところがなければ、その読書は失敗だ。ひっかかるところばかりでも同断。

読む目的があったほうがよいが、目的だけで読んでいると視野が狭くなる。まれに、自分の大発見に出会うこともあるから注意されたし。

気持ちのいい本ばかり読んでいるのは自分を甘やかしすぎだ。虫の好かない本もたまには手に取る。意外、というのは人間と同じ。

それから、どれほど辛く厳しく恵まれない人生でも、本を開いているときだけは貴方の時間。これはほんのわずかだけれど、人生の幸運です。

以上、自戒をこめて筆者記す。

(ふざけすぎたかしら)

村上春樹『プールサイド』残酷な肉体

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村上春樹回転木馬のデッド・ヒート講談社(1985.10.15第一刷発行)

「プールサイド」。ひとことで言えば、ある種の身体論である。

こう書くと、何を言ったような気になるが、気のせいである。

少なくとも、本作は「論」として描かれていない。その描かれていないところから始めるしかなさそうだ。

算定される肉体

本作は、「彼」による年齢とその肉体を足し算と引き算で数えるところから始まる。

ノローグだ。

彼は平均的なひとにくらべて意志的であることを除けば、奇矯なところなどちょっと見当たらない。

彼の合理性は冷静そのものだ。しばしば、人生という、迷妄に暮れやすい時のうつろいを、時間に換算しなおす。算定可能な時間に。

しかしこれは、言いかえたほうがよいだろう。換算し直された時間が、彼に意思を与えているのだ。

35歳の春にして彼は人生の折りかえし点を曲がろうと決心した*1

村上春樹回転木馬のデッド・ヒート講談社「プールサイド」より引用。

基本的な、彼の人生の算術は、現実的には水泳競技に比されている。

遠泳や、水難事故で無人島へと泳いでゆくそれでもなく、まして肩に銃をかついで渡河する兵士でもない。

彼は算術化された50メートルのプールを泳ぐ。どれほど長い距離であっても、その長さは彼によって再分割され、断片化された目標をひとつずつクリアすることで彼はトータルの目標を達成する。

自己啓発本というか、ビジネス書にありそうな、けれども現実的な方法のひとつだ。現実的すぎるんじゃないか。しかし少なくとも彼はそう考えている。算術的帰結は彼をひとつの結論に導く。

そしてこれで半分が終わったのだ。*2

※前掲書引用

もちろん、この「結論」は恣意的なものだ。彼じしんも、「折りかえし点」を40歳にすることもできると言っている。しかし「それでいいじゃないか」。

何番かはわからない「ブルックナーのシンフォニー」に比される「時間とエネルギーと才能の消耗」は、彼に「皮肉」で「奇妙」な「喜び」をもたらす。彼が、<折りかえし点>に分水嶺を定めて、みずからと妻との間に「あちら側」と「こちら側」という彼此を見出すとき、彼は「笑う」。声も立てずに。

問題らしい問題が見当たらないにも関わらず、彼は「消耗」しているのだ。

点検される肉体

誕生日の翌日、「朝の儀式」と彼が呼んでいるルーティンをこなすと、彼は脱衣室の鏡で、みずからの裸体を「点検」する。

まず髪、それから顔の肌、歯、顎、手、腹、脇腹、ペニス、睾丸、太股、足。

※前掲書引用

これらを彼は、リスト化し、数値化し、「点検」してゆく。

もちろん、この「点検」される肉体は、近代史のなかで、発見され、所有され、やがて支配されたそれだ。見いだされた<身体>が社会制度、国家、あるいは近代的自我に管理されてゆく過程を、近代と呼んでいるとも言える。象徴的な例がナチス・ドイツ。健全な肉体という容れ物とそれに規定される精神。

逆説的だが、精神が肉体を規定するわけではないのである。

これは、ナチス・ドイツが特異な思想を抱いていたわけではなく、近代になかば普遍的な制度と言うことができる。<身体>は制度のなかで、管理という抑圧のなかで測定可能になった「何か」なのである。そして、その「何か」が彼のモノローグを可能にしている。

近代の法概念は、身体を個人の所有に帰するとしたところから始まるが、ほんとうの意味で「個人」のものではないだろう。近代資本主義国家の要求がそれを求めているだけで、たとえば「健康」がそうである。労働者、国民、兵士は「健康」な身体でなければならない。そしてそれらは、「点検」可能なのである。

彼の「点検」も理路は整然としている。彼のモノローグのように。

過ちらしい過ちはなく、問題もない。ストイックと呼んでいいなら彼の肉体はストイックに管理されている。

老いる肉体

俺は老いているのだ。*3

※前掲所引用

小さな染みのように、彼はじしんの肉体に、「老い」を見出す。これは彼の理路では説明できないものだ。

誰しも老いる。やがて死ぬ。けれども、それを彼の理路は説明できない。

彼は「僕」に対して「老い」とその「死」は「恐怖」でも「苦痛」でもないと語る。「きちんと直面して闘うことのできないもの」と彼が拙く説明するものは、ほんとうは、「老い」と「死」の「恐怖」と「苦痛」でなければならないはずだ。

彼は社会的成功者である。

もちろんこの「社会的」には彼の結婚など、いわゆるプライベートも含む。公私の別というが、肉体が公私を分かつだろうか。スイム・ウエアを着用しているにしても、彼の肉体はプール・サイドに晒されている。

彼の理路と算術が、資本主義のなかで彼を成功に導いたことは、どうじに、彼の肉体を成功させたとも言える。

妻の他に恋人を作った彼は、「それを与えることができる*4」という言い方で、身体的欲求の快楽さえ「点検」してみせる。

「老い」と言う、若さに対置され、その喪失として語られる感傷がここで語られているわけではない。

ビリー・ジョエルの唄を聴きながら、彼は「泣く」が、これも肉体的反応にすぎない。ゆえに彼には「泣く理由なんて何ひとつない」と思われるのだ。

「老い」はそれがやがて何時は分からない「死」に続いている。肉体にその予兆は現れるが、それが何なのかはついにわからない。この「わからない」という不可知性から疎外されていることを、彼の肉体は把握できない。「老い」と「死」は算定されたり、「点検」できるものではないからだ。

彼のモノローグは「内面」の翻弄からは隔離されている。「内面」からは自由ですらある。よって感傷というあまりに「内面」的な出来事は彼には起こらないが、肉体からまでは自由になれない。

嗤うべきことだろうか。彼はじしんの話の「おかしみ」を、小説家である「僕」に見つけ出してほしいと願う。「僕」の反応は、あいまいである。

その「おかしみ」はずいぶんと残酷なものだからだ。

 

 

 

*1:本文は「決心した」に傍点

*2:本文は太字

*3:本文は太字

*4:本文傍点

村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』読むことの帰する処

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村上春樹回転木馬のデッド・ヒート講談社(1985.10.15第一刷発行)

まいにち同じはなしをしている。評論文、感想文もとより研究論文ではないが、さてこれなんだろうという作文である。筆者もわからない。筆者じしんが、よくわからなくなったところから書き始め、分からないことだけを考えながら書いているためではないか。構造的欠陥とも、言う。

とはいえ、今のところ、ほかに方法も思いつかないので、このまま書く。

自己言及的いいわけ。

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地の文

前回までの「タクシーに乗った男」で「僕」の語り、という言い方で筆者が拘泥したものは、一般には、地の文、と呼ばれるものだ。もともとは、作中にあらわれて、講談師や落語家のように話を回す役割を担う人物であったものが、やがて人称を失って、後景に埋没した。そういった意味では日本文学には懐かしい、近代文学以前の「僕」でもある。

国木田独歩のような人からそれが始まり、数人をのぞいて、やがてそれに誰も疑問を持たなくなったのである。馴致されたリテラシーとでもいえばいいだろうか。作者と、作中の語り手との間隙が見えなくなったときに、フィクションでありながら同時に真実でもあるという、ある種のリアリティを獲得したわけだ。この間隙、すきま、を無意識に作者読者ともに見えないふりすることを、両者の狎れあいだとはすでに書いた。

なんで、狎れあっていけないかと言うと、帰するところがないからである。

リアリティの作中に、作者読者ともに遊び、熱中することで、作者読者の現実に帰すべき人間の欠片が取り残されたままになるのである。本を閉じれば本が閉じられると思うのは気休めである。たとえば、なにがしかの作品の大ファンで、作中に現れたあれこれの消費財を身辺にならべて暮らしているとすればそれは、いっしゅの遊びではあるが、作中のリアリティが現実に侵食している証拠でもあるだろう。

遊びと現実の区別がつかない、ということを、したり顔で言いたいのではない。それが「ほんとうに」区別がつけられないまま生きる辛さ、そのことを言いたいのである。

帰するところ

筆者は、帰するところ、と言った。

小説的リアリティというものが、現実のリアリティを形成していて、じつは、帰するところがないのである。そのせいで、現実と思しきそれら万象を小説のように解釈し、小説のような人生を歩んでいる。

繰り返しになるが、村上春樹はそれを「我々はどこにも行けない」と傍点を振ってまで書いている。

筆者が、ファンからは喜ばれず、アンチ・ファンからは一顧だにされないであろう、こんな作文を書いているのも、こうした在り様を、実際に現実に自分の手で確認したいからである。それというのも、理屈は必ず理屈に倒れるもので、また、虚実の区別をつけましょう、と言って済ませようとする態度は、必ずそれに祟られるからだ。

じっさいに目の前の本を読んで、敗れ去ったり、四苦八苦したり、じたんだを踏んだりする必要があるのである。その方法を、たとえば他人の文学理論を用いたところで、ほかの科学とは違って、人文学の営為はきほん手作業である。しかも、それは理論の原理上、製作者専用である。言語、言葉というものがいったい何であるか依然わからない以上、その然らしむところだ。

なんだか屁理屈ばっかり言っていやがるが、読者がじぶんで読むこと、を筆者は書こうとしているのである。どうやら。できるのかね。

「僕」の目論見

「僕」を通して作家が作中でやろうとしていることは、その目論みは、序文に示されている。「スケッチ」とは、ずいぶん苦しい言い方で言い表されているものだが、「小説」でも「物語」でもないと言っている。もちろん、それは「小説」や「物語」として読めば読み誤つことを指している。

よって本作『回転木馬のデッド・ヒート』は、ものすごく、読みにくい。馴致されたリテラシーに引きずられながらも、なんとか踏みとどまらなければならない。

逆に言えば、どこが「小説」「物語」でなのかを読めばいいわけだが、そんな簡単でないのはすでに書いた作文のとおりである。筆者は賢くないのである。

ここまで序文からわずか2編を読み終えた。そしてそれがどうやら、小説以前に戻ろうという意図のもとに書かれていることが分かった。疑念を、起源に遡って検証しなおすという手作業が行われていることも、どうやら確かそうだ。

筆者はそれが手作業ゆえに信じている。そして、なんじゅう年かぶりで本書を開きページのこちら側で、かじかむ手をこすりながら、読むこととはなんだろうと考えている。

 

村上春樹『タクシーに乗った男』共感とプラハの春(2)

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村上春樹回転木馬のデッド・ヒート講談社(1985.10.15第一刷発行)


前回、なぞかけのような終わり方をした。じつは筆者もわからないで書いているからである。

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本来ならば、彼女という画廊オーナーの語りとなるべき、その絵をめぐる描写を、なぜ「僕」が語るのか。それで三日悩んだ。もしかして既に書いたぶぶんが、そもそも間違っていたんじゃないかと疑った。

筆者がじぶんの勝手で投げた謎を、そのままにはできない。筆者は読者であり、読者にはとにもかくにも読む責任がある。

タイトルにあるように、一面では「プラハの春」が時代背景にある作品だ。年号とチェコ人画家がでてきて、そうではないとは、まさか言うまい。それで筆者も、これは村上春樹らしい自己韜晦だと早合点した。

小説は、かならず小説それそのものを読まなければならない。これは最低限のルールである。破れば応報がある。読者の不誠実は、必ず作家の誠実のまえに潰えるほかないという、いい例だ。

作家は自己韜晦したのではない。これ以上もないくらい明晰に書いたのだ。

歴史を物語ること

繰り返しになるが、チェコ人画家の「絵」は「僕」よって、<遠近法>のもんだいとして語られる。そしてそれは歴史のパースペクティブに敷衍される。そしてそこに「プラハの春」という歴史的出来事は、直接それと指呼されることがない。

これは韜晦ではなく、1968年という年号とチェコという単語によって、いとも簡単に呼び出されてしまう「プラハの春」という<歴史>への懐疑ではないか。

この<歴史>は、年表に行儀よさそう並んでいるそれである。本作初出は1984年2月、雑誌『IN-POCKET』と初出一覧にあるものだが、その間16年経過している。<歴史>の遠近法を信ずるなら、それはすでに世界史の後景に退いている。

時間がたてば、いつの間にか過ぎ去ってくれる<歴史>は安全である。その間、人類は目をそばめていればいい。うつむいて、あるいは狂騒に明け暮れて、その方法がなんであれ、時間をさえ稼げばよい。時は経ち、やがて安全な<歴史>ができあがる。それがどれほど安全とか言えば、反省したり、後世に残したり、<歴史>に学ぶことができるくらいには、危険がない。うっかり戦車にひき殺されたり、とくに意味もない同族相食む殺し合い(あえて戦争とは呼ばない)に巻き込まれることもない。

いっぽうでこの<歴史>はその安全性ゆえに、いともたやすく捏造できる。それを修正とよぶのか、洗練とよぶのか、筆者には興味のないことだ。

体験談は、それが当事者であればあるほど、バイアスがかかるのは日常で見知っているありふれた経験である。その体験が、日常茶飯か、奇妙な出来事か、酸鼻の戦争体験かは問わない。人間は、というより言葉は、事実を伝えることこそが極めて難しい。嘘ならいくらでも吐けるのである。<歴史>は願望が投影される。そして願望は内的合理性を整合する。過去は現在である。かくあれかしと願う現在の影である。

この<歴史>は、実に<創作的>な営みで、まことに常識的な、あたりまえの姿をして流通しているものだから、疑うことができない。もちろん、きっかけ、それを疑う契機は確かにあるはずなのだ。見給え。死んだ愛する者はもう二度と戻ってはこないではないか。

「僕」は、<歴史>を退けて、それでも歴史としか呼びようのない<それ>を、引き受けたのである。本来、画廊オーナーである彼女の語るべき<それ>を。もちろん、彼女のためにではない。物語と小説と歴史とが癒着して見分かたぬほどになった荒野の、細い径を往くためである。

<それ>を語ることは、既存の小説でも物語でもなされるわけにはいかない。小説的で物語的な<歴史>こそが「僕」の疑念、痛切な疑念であることはすでに述べた通りである。

<それ>はそれでも言葉を与えられなければならない。言葉がないところには、哀しみの影すらないからである。

本書序文で作者は「スケッチ」と言った。確かにこれは「スケッチ」だ。彼女が語りだすことで<歴史>に堕ちてしまう<それ>を、「スケッチ」という描写で書きとどめた。

なぜなら、<歴史>を信ずることはできないが、どうしても忘却できない悲しみの影の実存だけは疑うことができないからだ。1968年、チェコ・スロヴァキアの<歴史>を否定しても、揺曳する哀しみの影とその実存を、どうして否定することができようか。

sympathy

私が彼に抱いていた感情はいわばsympathyのようなものです。私の言うsympathyは同情でも共感でもなく、二人の人間がある種の哀しみをわかちあうことです。

おわかりになりますか?」

僕は黙って肯いた。

村上春樹回転木馬のデッド・ヒート』「タクシーに乗った男」より引用

彼女は絵について、その凡庸さについて語る。絵について語りながら、人生の凡庸さという、そのなかでもひときわ凡庸なそれについて語る。絵の男、タクシーに乗った男は、その中に永遠に閉じ込められてしまった。「永遠にです」と。

29歳になった彼女は、芸術家になれなかった芸術家になろうとしていた。青春と呼ばれるものは終わろうとしていて、失ったものの大きさと小ささとを「思いし」ろうとしていた。なんと凡庸なことだろう。

それは1971年のことであったという。ダボス会議、アポロ14号月面着陸、南ベトナム軍のラオス侵攻。いくらでも綴れるがやめておこう。歴史の気宇に比べるだろうか。宇宙の壮大にくらべて、とひとは言うだろうか。それらも十分すぎるほど凡庸なのである。彼女は絵を焼き捨てる。

焼き捨てたのはタクシーに乗った男であり、sympathyである。

この場合のsympathyは「二人の人間がある種の哀しみをわかちあうこと」とあるように、共感や同情ではなく、悔みや弔意のことだ。彼女は、「永遠」に閉じ込められた凡庸さという亡骸を焼いたのだ。

もちろん、この葬儀のごとき儀礼儀礼にすぎない。彼女はこの儀式めいた行為で自分の人生にターニング・ポイントを作るが、そんなわかりやすい転換点は<歴史>のなかにしかない。倒錯的に人間が<歴史>に見出すだけだ。そもそも人生はターニング・ポイントではできていない。言ったではないか。人生とは凡庸なのだ、そもそも。

後年、作中では「昨年」、彼女は「彼」に遭う。言うまでもなく「タクシーに乗った男」である。

思い出せないほどの長い時間がたって、彼女の中のその揺れが収まった時、彼女の中の何かが永遠に消えた。彼女はそれをはっきりと感じることができた。何かが終わったのだ。

※前掲書より引用

ほんとうに「終わった」のだろうか。それを自身でわかるのだろうか。はるか後年、あるいは死の間際に、気づくのだろうか。その哀惜と歓喜と後悔と廉恥とにまみれた何かを。しかし、そんなこと誰が知るであろう。

「『カロ・タクシージ』ーーよいご旅行を」

当然ながら、彼女は作品のなかで「僕」が引き受けた<歴史>を知らない。彼女はタクシーに乗ったり乗らなかったりしながら人生を続けるだろう。あんがい逞しいのだ。「人は何かを消し去ることはできないーー消え去るのを待つしかない」という教訓を述べる彼女に「僕」は何も答えない。「彼女の話はそこで終わった」のだ。

しかし、人知れず、「僕」は彼女のなにかを引き受けたのである。筆者が苦し紛れに「それ」と呼んだなにかを。ゆえに、「発表することができて、僕はすごくほっと」したのは、当然すぎる安堵であろう。ひとまずの、かりそめの、みせかけの、それでも安堵には違いない安堵。筆者だってとりあえず書き終えて、ほんとうに「ほっと」しているのである。今だけは。

 

 

森鷗外『阿部一族・舞姫』疲れる「内面」

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森鷗外阿部一族舞姫新潮文庫(昭和43年4月20日発行)

「内面」は疲れる。

これを抱えて社会を右往し、あるいは左往する。夜には胸に抱えて眠りにつき、心理学の説くところによれば夢にさえ出るらしい。潔癖なものあり、醜悪なものあり、勝手に感動をもたらし自ら感動し、たとえばそれを嫉妬と名付けることもできないまま、こころの嵐に曝される。疲れないわけがない。

疲れて思うのは鷗外である。

今回取り上げた一冊は、この疲れる「内面」とそうでない「何か」を配置した良書だ。『舞姫』『うたかたの記』という告白からはじまり、ふいに中世の英雄豪傑が現代に現れたかのような『鶏』。告白から一歩進めて社会心理分析的な『かのように』。そして内面を拒絶した『阿部一族』『堺事件』という歴史小説。とはいえ内面を拒絶もできないのが近代だ。『余興』という近代の不思議で可笑しな辛酸に遭う。そのあとに『じいさんばあさん』。個人の歴史のようでありながら、読者は書かれていない翁媼の内面に感を覚えるだろう。ひょうげた雰囲気をただよわせる『寒山拾得』は、自らも「文殊」なのだと結ぶ。なんのことだ。

筆者はくたびれた折々『舞姫』を流し読みにして『鶏』を読む。『阿部一族』をぱらぱらめくって『寒山拾得』を読む。

自律した古典世界のような安心感がありながら、古典世界の文学ではない。

「内面」という、影のように付き纏いながら、影よりずっと喧しいそれを、一時忘れることができるような気がするのである。もちろん、気がするだけだから、その報いはあとで受ける。「内面」という「私」は嫉妬深いのである。

それゆえその嫉妬は、古典世界の安楽という妄想に眠ろうとする筆者を叩きおこす。

飄逸な『寒山拾得』の向こうに、『舞姫』の告白を書かざるをえなかった鷗外を見せるのである。なんと心無い奴であろう、わが「内面」とは。

もちろん、言われなくとも知っている。その「内面」は筆者の、わたしたちのご先祖である。

知りすぎるほど知っているに決まっているではないか。

 

 

佐藤賢一『カペー朝』『ヴァロア朝』『ブルボン朝』子供の読書

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佐藤賢一カペー朝』『ヴァロア朝』『ブルボン朝講談社現代新書

どんな作品、著作であれ、まずは読者がいなければ話にならない。これは筆者の考えである。もちろん、どちらが、偉い、という話ではない。お客ではあっても、神仏のたぐいでは、まるでない。上の言い分は、読者は読めなければ話にならない、ということでもあるから。

さて、取り上げた3冊だが、勇気のある、自信のあるタイトルだ。まずは読者が興味関心をもって手に取ることを願うなら、『カペー朝』『ヴァロア朝』『ブルボン朝』とは何事だろう。

きょうび、タイトルが一文をなして内容を説明していて、それならもう読まなくてもよさそうな書籍が多い中で、ずいぶん堂々としている。筆者はひそかにアレは中身の見える福袋だと思っているが…。

それでも、おもて表紙には「フランス王朝史」とあるから、かろうじて中身は推察できる。著者は西洋歴史小説家で有名な人物だから、そのネーム・バリューなら必ず売れるという自信だろうか。

学校で教わることになっている歴史は、万国史と一国史をないまぜにして教えるから、わけがわからないのである。ほんらい一つのものを別物として、なおかつ一緒にどちらも教える。やむなく同時並列進行する時間を、前後左右にゆきつもどりつ教えるわけだが、おそらくこれは一番わかりにくい教え方である。そしてそこに、よせばいいものを、文化史や風俗史などを添える。知っている人間にはわからぬでもないが、知らない人間には全く伝わらない仕組みになっている。

国策で歴史に人民が親しまないようにあやつっているんじゃないかとさえ思う。

さて、本書はそうした歴史のなかでフランス史。その歴代王朝の歴史を、紀伝体で描いたものだ。それぞれの王とその名前、在位が記され、その業績悪行人柄善徳という、ひとたび生きてやがて死んだ人間のできごと、が物語の文体で書いてある。

これによって、あたまのなかで、ごちゃごちゃになっていたルイやらフィリップやらシャルルが一本の線に沿って躍動し、展開する。筆者はかつて遭難し行方不明になっていた、記憶の断片たちが救出されるのを、目の当たりにするような気がした。

該博な知識を、該博なまま語る者はある。あるいはその広大さの断片だけ教える者もある。しかし、該博を読者と分かとうとする者は稀だ。分かちもつかどうかは、読者の責任である。

むかし、「伝記」という子供向けの本があった。おそらく今もあるだろう。偉人とされる古今東西のひとびとの一生を描いたお話だ。艱難辛苦汝を珠にすべし、とか。正直者は報われる、とか。刻苦勉励こそ立身出世の道なり、とか。ずいぶんお節介なことも書いてあった記憶もあるが、もちろん子供はそんな処など読んではいない。そこにあるこの世の不思議と、その不思議にじぶんも含まれている不思議に感じ入るのである。子供ならば、その程度の読書センスはある。のちに失うだけだ。

本書もその「伝記」の精神が生きている。カペー朝の由来となる始祖ユーグ・カペーから始まった物語はボナパルト・ナポレオンを経てオルレアン朝ルイ・フィリップまで続く。「大革命」を経たフランスは、共和制へと移行し、王そのものがいなくなる。

なぜか、と感想が残る。

なんとなく、子供の読書に似ている。

答えではなく、問いそのものを問うことを体験するのが読書なら、これは上出来の感想だろうと筆者は思っている。

 

 

 

 

中島敦『山月記』誠実な自己批判

 

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中島敦『李陵・山月記新潮文庫(昭和44年9月20日発行)

言語は、といってややこしいなら、言葉は。言葉は、ひとびとの想念のなかに棲む。筆者は、中島敦山月記』について書こうとしている。高校生の教科書や副読本にも出ているから、よく読まれた小説のうちに入る。

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