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中野重治『村の家』転向をめぐって

〈転向の定義〉鶴見俊輔

鶴見俊輔は〈転向〉を「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」*1と定義している。
これだけ見ると、「権力」と「強制」にアクセントがつきすぎていて、じっさいには自らすすんで、という自発性とうしろ暗さ、それから節を変えたという恥辱がうまく表わせていない。
日本の社会で、恥辱「恥」というものが非常な大きさで比重をしめていることは、日ごろこの社会に棲み暮らしして誰しも気づいていることだ。内面的にどれほど自分に言い聞かせ、説得しても、拭い去ることのできない汚点や傷として残るのが「恥」というものだろう。

だから、〈転向〉は〈転向〉と呼ぶほかないわけである。

そのうえ、語の内容のどこにアクセントの強弱をつけるかによって、ひどく狭いはなしにもなれば、広がりすぎてただの一般論にもなってしまう、そんな言葉なのである。

『村の家』成立の時代情勢①

1928年、水野成夫による獄中転向、1929年、佐野学、鍋山貞親らによる転向声明など、共産党員の〈転向〉が、狭義にあたると同時に、原義の〈転向〉である。このへんのいきさつを説くのは筆者には荷が勝ちすぎている。そこで、小説を一篇取り上げることで代えようというのが今回の作文になる。
取り上げる作品は、中野重治『村の家』(昭和10年)である。
狭義の〈転向文学〉でその典型と見なされる作品になる。
今からすると、おそろしく古い小説だ。理由もなしに読んだら、面白さを見出すのはちょっと難しいかもしれない。

中野重治は1902年生まれ。小説のほか評論、詩を作った。

福井県の自作兼地主の家の次男である。金沢四高で2年落第。そこから東大独文科に進学。在学中にマルクス主義に傾倒し、プロレタリア文学理論に基づく、詩、評論を発表。

卒業後も、その活動は続くが、1932年4月、参加したコップ(KOPF=日本プロレタリア文化連盟)に対する大弾圧によって捕らえられ、1934年9月、懲役2年執行猶予5年の判決で出所した。この後、「転向五部作」と呼ばれる〈転向文学〉を書くに至る。*2

2022年なのに、プロレタリア文学、なんて書くとなんだかクラクラしてくる。

『村の家』はこの〈五部作〉の三作目にあたる。くだくだしく導入を書いてしまったけれど、前段としてのいきさつが分からないと読みようがないので已むをえない。
そして、この小説は私小説である。なにゆえかというと、作者じしんが言っているからである。

「自分の直接経験した事実(現象としても事実であったもの)」を書いたもので、「すべて空想をしりぞけて事実のなかに一つの流れをさぐり」たかった*3

「事実」なら、ドキュメントかルポルタージュで書けばよさそうなものだ、と疑問がたくさん湧いてしまうところだが、それについては後で触れる。
いずれにせよ、作者じしんが、注意書きのように「事実」の私小説だと言い切ってしまうという、まあまあ珍しい小説なのである。

そして、くどくど書いた中野重治の略歴のなかで、1934年の出所前後から、中野重治じしんの作中人物勉次が実家である「村の家」に帰ってきたところから本作は、はなしが始まる。

『村の家』の内容

本作は中編小説とされているが、今ならじゅうぶん短編である。とても短い。
書かれている内容は、

  1. 知識人と日本の民衆
  2. 社会主義運動からの獄中転向
  3. 父孫蔵との相克

とおおまかに言って三つに分けられる。

知識人と日本の民衆

中野重治は東大出のインテリである。書き出しで勉次が「翻訳」をしているのも、おそらくはドイツ語であろうが、高い学歴を得た者としての描写になる。

日本の社会主義運動は、彼のようなインテリ、学生、知識人によって担われた。もちろん、都市労働者も参加したが、「指導」したのは彼らではない。よって、当局が弾圧を決意したときに、その頭から潰しにかかったのは理にかなっていたわけだ。

冒頭で、「宗門改め村人別」を眺めて「百姓の女名の変化に現われた何とか……」「そんな問題がちらっとする。」とある。これによって、インテリ知識人がその「指導」先である労働者や一般大衆を、どう見ていたのかがわかる。

問題がそんな形で頭に浮かんだこと、現象から社会的なテーマを引きだそうとすることが、恥知らずな行為に思えたのだった。

※『日本文学全集42 中野重治集』集英社より引用

社会主義運動が、決定的に敗北したことを、勉次なりに分析した結果がここに書かれている。
革命の方法や、その理論が活発に議論される一方で、今ふうに言えば、一般大衆とくに当時の疲弊した農村の実態などまるで目に入っていなかったのが、当時の社会主義運動が敗北した大きな原因であったようだ。
つまり、インテリとその他民衆はまったく断絶していて、その裂け目はあたかも民衆の愚かさ、迷妄さのせいにされていた。

これは、こんにち、今なお、変わらないことだ。「反知性主義」が「バカ」を指す言葉になっていることを思ってみればよいだろう。それはエリートのうぬぼれである。

知識人という優秀で頭の良いじぶんたちが、愚かな民衆を「指導」すれば、社会は良くなる、といういささか自分勝手な独善がそこにある。
じっさい、弾圧された「主義者」たちを助ける民衆はなく、むしろ、その検挙や密告には進んで当局に協力している。理論はないかもしれないが「主義者」たちの胡散くさい独善を、一般のひとたちは見抜いていたとも言える。

このことを、勉次は、というか中野重治は、「恥知らずな行為に思えた」という言い方で反省しているのである。

ただ、それでは一般民衆が〈正しかった〉のかと言うと、はなしはそう簡単ではない。社会主義運動という抵抗勢力を壊滅に追い込んだあと、日本国家は太平洋戦争に向かって軍国主義の道を一気に歩む。その敗戦を迎えたとき、戦争協力の果て、すべてを失ったのは民衆自身なのだ。
本作のテーマは、視点をひろく持つと、明治時代からずっと、いまだに続く知識人と民衆の断絶、も含んでいるのである。

社会主義運動からの獄中転向

冒頭を過ぎると、勉次の眼から見た、「村」の様子が描かれている。煤けた家や、貧しい村、そして、複雑に入り組みあった人間関係。かんたんに言えば、口コミ、他人の噂でできた古い共同体。田舎にいくと今でも残っている。
そんな暮らしを横目に、フラッシュバックするように、勉次の収監と裁判をめぐる回想が織り込まれる。おおくは、父孫蔵との書簡のやりとりによって描かれている。
これは、〈転向〉という中野重治の「恥」をみずから暴くことへの葛藤だろう。じぶんで「恥」を暴いて恬淡としていられたら、たぶん、それはもう「恥」ではないから。
しかし、収監中の勉次が心配していたのは、主義でもその運動でもなく、まして理論でもなかった。

彼は、死よりも発狂を恐れたが、恐怖の瞬間には本当はどっちを恐れているのか弁別できなかった。一度は自殺の恐怖とも戦った。

※前掲書より引用

治療中だった「黴毒(ばいどく)」による「発狂」を恐れていた。しかし、これは尤もすぎる理由である一方で、尤もすぎる言い訳である。言うまでもないことだが、彼は、もちろん、〈転向〉をこそ恐れていたはずだからだ。それを直視できない恐れが、「発狂」への恐れにすり替わっている。

中野重治はこのへんの、じぶんの狡さを正直に書いている。

病気による保釈という希望は、さしあたって〈転向〉しないで済む、あるいはそれについて考えなくていいという言い訳を彼に与えている。

その心境を「ヘラスの鶯」と喩える心事は、筆者にはちょっと理解できないことではある。

ここから勉次が〈転向〉に至るいきさつは、少しばかり、わかりにくい。そもそも〈転向〉という言葉は出てこない。事実の列記のように書かれていて、その事実どもが、中野重治のうずくような「恥」をかさぶたのように覆っている。
曰く、じしんの病。保釈願いのために必要な書類をそろえること。父孫蔵が身元を保証すること。そして同棲していたタミノにそれを明確に伝えないこと。そういったことが描かれる。
やがて勉次は執行猶予付きで保釈され、実家に帰る。
彼は〈転向〉したのだ。

父孫蔵との相克

勉次の保釈のため、何度も上京し金を工面したのは父孫蔵である。「自作兼小地主」という、昭和に入ってから没落していった地主、地方の名望家である。「正直もの」だが「頑固もの」ではなく、近隣の人望も厚い。病がちな妻をいたわり、なんとか家をひとりで支えている。
そして上京した「子供たちの世界に遠慮がちな理解を持っている」が、いっぽうで「勉次なぞの夢みていることやその仕事を彼は甘い」とも見抜いている。
60歳を越えてから、彼は息子勉次の逮捕を知る。勉次は実家の状況を、父からの手紙で知っているわけだが、それでも自らの裁判と保釈のために何度も父を呼びだす。

筆者は小見出しに「相克」と書いてしまったが、ここにあるのは父孫蔵の子への強い情愛である。

この情愛が彼をして勉次に説諭させる。本作のクライマックスで本題である。

孫蔵は、じしんが必死で家を支え、妻や子供たちの願いを能うかぎり叶え、勉次の「共産党」活動に対しても金を送り、自分で決めた道なら、と理解を示してきたことを諄々と説く。
しかし、

「転向*4と聞いた時にゃ、おっ母さんでも尻餅ついて仰天したんじゃ。すべて遊びじゃがいして。遊戯じゃ。屁をひったも同然じゃないかいして。(中略)

お前らア人の子を殺いて、殺いたよりかまだ悪いんじゃ。ブルジョアじゃ何じゃいうても、もっと修養のできた人間はぎょうさんある。(中略)

お父つあんらは、死んでくる*5ものとしていっさい処理してきた。小塚原で骨になって帰るものと思うて万事やってきたんじゃ……。」

※前掲書より引用

解説は要らないだろう。その〈転向〉という「恥」を孫蔵は指摘する。

「お父つあんらは、そういう文筆なんぞは捨てべきじゃと思うんじゃ」

※前掲書より引用

そのうえで、孫蔵が説諭するのは、失敗は誰にもあること。百姓でもやって暮らす、自分で労働して自分の稼ぎで食べることになんの「恥」もないこと。
「よう考えない。我が身を生かそうと思うたら筆を捨てるこっちゃ。」と孫蔵は続ける。「土方」でもなんでもして、「そん中から書くもんが出てきたら、その時は書くもよかろう。」「どうしるかい?」

お前はどうするのだ?と孫蔵は勉次に問う。

「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」

「そうかい……」
孫蔵は言葉に詰ったと見えるほどの侮蔑の調子でいった。

※前掲書より引用

「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」という勉次の言葉が本作のすべてだと言ってもいい。これだけ理解し援助し、あらんかぎりの情愛を注いでくれる父の、心からの説諭に、それを聞いたうえで、彼は筆を捨てない、とかろうじて答える。その心事を、

自分は肚からの恥知らずかもしれない。しかし罠を罠と感じることを自分に拒むまい。もしこれを破ったらそれこそしまいだ。

※前掲書より引用

と勉次は言う。
孫蔵の言うことを、尤もだと思う方も多いかと思う。筆者もはじめそう思った。吉本隆明も『転向論』のなかで褒めてさえいる。これがほんとうの民衆の姿だと。
またいっぽうで、これは同時代評に多いのだが、そこに立派な文学者のすがたを見いだし勉次を、中野重治を賞賛する向きもある。

筆者は久しぶりに読み返して、これはどちらでもないなと思った。

賛否両論の読み方だと、勉次が孫蔵のどこに「罠」を「感じ」たのか。この「罠」の理由と意味が解けないだろう。
ここが解けなければ、勉次はじしんが言うようにただの「恥知らず」だ。しかし彼は「自分の答えは正しい」と書いている。

この「罠」が前回筆者がやぶれかぶれに書いた〈日本への回帰〉につながるわけだが、それは次回に。今日もありがとうございました。

『村の家』成立の時代情勢②

〈転向〉の時代情勢について補足する。
昭和8年のはなしになる。

年号のはなしばっかりしていると嫌がられそうだが、昭和8年は西暦でいうと1933年。
この2年前が満州事変で、前年昭和7年(1932)には5.15事件。そして1933年に日本は国際連盟を脱退している。
前に「32年テーゼ」と不用意に書いてしまったけれど、日本がファシズム化、軍国化にむかってそのピッチを大きくあげてゆく中で、国内の左翼勢力がそれに抵抗する、あるいはそれに引きずられるようにして先鋭化してゆく理由はその情勢に求められる。

昭和8年6月8日、佐野学、鍋山貞親らによる転向声明とは前回書いたことだが、このとき出された『共同被告同志に告ぐる書』は、検事*6と裁判所に後押しされる形で発表された。それは

  1. 天皇制の支持
  2. 満州侵略の肯定
  3. コミンテルン離脱

を声明として発表されたものである。内容には触れないが、上に書いた時代情勢を肯定し、それまでの共産党社会主義運動を全面的に否定したことが大きい。
そして特筆すべきは、この声明以降の〈転向者〉の人数、である。
当時、思想犯、政治犯として検挙された治安維持法違反者の数は、1763名。これは未決囚と既決囚を併せたものだ。そのうち548名は、上記の声明に追随して〈転向〉した*7
中野重治は、こういった情勢のなかで〈転向〉したもので、けして特異なことではなかったのである。
それでは彼の特異さはどこにあったのか。

「罠」とは何か

自分は肚からの恥知らずかもしれない。しかし罠を罠と感じることを自分に拒むまい。もしこれを破ったらそれこそしまいだ。

中野重治『村の家』より引用

前回のつづきだが、この「罠」を見出したのが中野重治の特異さであり、「村の家」の特異さであろう。

勉次は父孫蔵の情愛をしっかりと受け止め、その説諭もじゅうぶん理解している。その上で、「罠」を感じている。それがこの作品末尾に書かれている。

ただ彼は、いま筆を捨てたら本当に最後だと思った。彼はその考えが論理的に説明されうると思ったが、自分で父にたいしてすることはできないと感じた。彼は一方である罠のようなものを感じた。彼はそれを感じることを恥じた。それは自分に恥を感じていない証拠のような気もした。しかし彼は、何か感じた場合、それをそのもとして解かずに別のもので押し流すことはけっしてしまいと思った。

中野重治『村の家』より引用

この部分が、勉次による「罠」の説明といえば説明になっている。

いくつかに分けて説明する。というのは、同じ言葉が二重の意味をもって書かれているからだ。そのせいで勉次に賛成の読み方と、その反対が生まれてしまうのである。

  1. 父子にとっての「筆」
  2. 同じく彼らにとっての「恥」
  3. その「罠」とは何か
父子にとっての「筆」

勉次が言っている「筆」は、父孫蔵が前回の引用で「我が身を生かそうと思うたら筆を捨てるこっちゃ。」と言っていた「筆」とは意味が異なる。
からしてみれば、花鳥風月を詠む閑事にしか見えない「筆」だから何時でもいいではないか、と孫蔵はいうわけだ。しかし、勉次の「筆」=活動と文学は、じぶんはおろか父と村と国そのものを台無しにしようとするファシズム国家そのものとの対峙と対決である。
それは、過去にも未来にもなく、「いま」にしかない。なんなら「いま」「筆」を振るわなければ、それこそ「遊戯」になる。

しかし、これを「彼はその考えが論理的に説明されうると思ったが、自分で父にたいしてすることはできないと感じた。」わけだが、ここに、「民衆と知識人」の乖離、へだたりがある。これが埋められなかったことが勉次自身の政治的敗北につながっているし、勉次自身これへの答えをみつけられていない。そのうえ、投獄された彼を保釈するため奔走し、実家にまで引き取って受け入れてくれたのは、他ならない父である。これに論駁することなどできない。

むつかしく言葉の二重性といってもいいなら、ここに一つ目の二重性がある。

同じく彼らにとっての「恥」

そして、この反論しようのないなかで、勉次は「罠」を感じるわけだが、そのまえに、この「罠」を感じたじしんを「恥」じた理由を考えてみる。

頭から順に読んでいくと、分かりにくいのだ。

ここではひとまず、ばくぜんと「罠」として保留しておく。

さて、勉次が「恥じた」のは「罠」ということばに含まれた激しさが、父に向かうことで内心に呼びおこされる後ろめたさ、ゆえであろう。とても父親にむけていい言葉ではないから。

これは勉次自身の倫理的な「恥」である。
いっぽうで父孫蔵が勉次に説く説諭も、根っこには「恥」を知るこころがある。
どちらも同じ「恥」だが、後者は社会的な「恥」、文化的なものである。

孫蔵は日本の社会のなかで生きてきた。だれに「恥」じることもないように。そして息子勉次にたいしてもそれを指摘し、どうするのだ?と問うているわけだ。

この説諭じたい、どこにも間違ったところはないように見える。

けれども、この「恥」を知ることこそが、勉次の対峙してきた日本国家の根底をささえているのではないか。悪人や偽善者だけで国がなっているわけではない。誰しも知るように、じっさい殆どは善男善女といってもいい人たちである。それらがみんなまとまって、国家のなかに棲んでいる。それぞれ生活の知恵を見つけ出し、生きている。

作中でも言及されているように、孫蔵は日清戦争に従軍している。自作兼小地主としても日夜奔走している。そして家族のためにも努力をしている。そうした「苦労」は孫蔵じしんを矯め、勉次に説諭するような、他人に「恥」ずかしくない生き方を身に着けるにいたっている。

それでもじっさいは、その善良な暮らしの苦労は国家が強いたものではなかったか。徴兵や土地問題、農村の疲弊。けれどもそれらは理論化、言語化されることなく、日々の暮らしのなかに埋没して、逆にその困苦を積極的に受け入れて道徳や生き方をつくりあげている。これを批判するのはたやすいが、暮らしていかなければ生きていけないという前提を突き崩すことは誰にもできないはずだ。しかし、ときのファシズム国家を支えていたのは、この「まっとうな暮らし」なのである。積極的な加担ではないかもしれないが、むしろ確実さという点からみれば、彼と彼らこそが国家の礎となっていたのである。

かんたんに言うと、経験から割り出された人生訓であり、堅実にもみえるが、ほんとうは「恥」をかきたくない、というその「恥」に強いられたものなのではないか、ということだ。

ちょっと長くなったが、「恥」という日本語のなかに二重性があって、その二重性がみわけがつかないくらい融合している。二つ目の二重性である。

その「罠」とは何か

この二つの、ないまぜになった「恥」の二重性を巧妙に利用したものが〈転向〉なのではないか。これを勉次はひとことで「罠」と呼んでいる。

はじめ倫理として起こった「恥」が、見分けがつかないままに、文化の「恥」にすり替わるとき、本質的な意味での〈転向〉が起きる。

父孫蔵が息子勉次にすすめている、「まっとうに暮らす」ことは、このすり替えを意味している。しかし当然、悪意や愚かさがそうしているのではない。日本の社会のなかでより善く生きようとすればするほど、そこにはまり込んでいくのである。自動運動のように。

よって、これを受け入れたら、勉次はじぶんでほんとうは何に〈転向〉したのかも分からないまま、ほんとうに〈転向〉することになるのである。永久に。それを勉次は「罠を罠と感じることを自分に拒むまい。もしこれを破ったらそれこそしまいだ。」と言う。

「恥」をめぐる文化の巧妙さ、それを利用した〈転向〉の巧妙さに、勉次は「罠」を「感じ」たのである。

それでは、それでも彼にできることは何だろう。

彼は言う。「何か感じた場合、それをそのもとして解かずに別のもので押し流すことはけっしてしまいと思った」と。倫理の「恥」と、文化の「恥」。これはそれぞれ別のもんだいだ。これらを別々に「解かず」に、「まっとうな暮らし」で「押し流すことだけはけっしてしまいと」彼、勉次は「思」うのである。

くりかえすが、これらがないまぜになったとき、彼にほんとうの〈転向〉が訪れてしまうのだ。

〈転向〉する知識人

日本の社会を批判する批判はむかしからたくさんある。むしろ、日本の知識人はそれが好きだ。しかし、社会に反論し、それを批判することは容易いが、それは反論のための反論、批判のための批判にすぎなくなる。勉次のように、ひとびとの幸福と正義のために立った者が、ひとびとの批判者にまわるなど、本末転倒だ。

前回も触れたが、「知識人と日本民衆」との乖離は、大きく分けると二つのパターンに分けられる。

  1. 「恥」の文化に代表される〈日本〉を敵視するか
  2. その〈日本〉に降伏して回帰するか

民衆はインテリ知識人をあがめる一方でこれを畏れたが、じぶんたちの生活と実感からあまりに離れすぎていて、所詮は世間という実社会がわかっていない連中だと腹の底では軽蔑した。

このへんの気持ちは、今でもわかって貰えそうな気がする。

加えて、社会運動の挫折と、活動家知識人のなんらかの〈転向〉、これが明治時代から何度も繰り返されるパターンになっている。そのくりかえされる挫折は、上に挙げた二者択一をかれら知識人たちに強いて、それは死屍累々、といってもいい。

『村の家』の功績は、二者択一の〈日本〉論にたいして、それが何故なのか。何なのかを描いた点にあるのではないか。

私小説『村の家』

さいごに、前回はじめのほうで触れた「私小説」であることについて書く。

本作の内容が、ドキュメントでもルポでもない形式、私小説を採用したのは、これが昭和10年(1935)という自由な言論が不可能になった時代が背景にあるからだろう。また、一見読めば〈転向〉した心境小説にも読めるし、当局の眼もごまかせる。
先に「恥」の「二重性」と言ったが、分析的なことばであると同時に、時代背景が強いた「二重性」でもあったわけだ。
また、これは物語であってはいけないし、プロレタリア文学のような文学理論の実践であってもならなかった。誠実な〈告白〉である必要があった。

ふしぎなことだが、あらゆる文学者や批評家にさんざん批判された私小説こそが、のっぴきならなくなった中野重治の心事をえがくのにもっとも適した文学様式になったのである。そしてそのうえ、「村の家」が「事実」であることを作者みずから念を押すことにまでなった。

筆者も私小説批判まがいのことを何度か書いたが、よく考えてみるとわからない。かんたんな論理的な批判ではどうにもならない、そんな根深いものがあるのかもしれない。

いずれにしても、作中勉次はこう言っている。

「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」

中野重治『村の家』より引用

 

それはたしかに「書」かれたのである。

 

 

*1:思想の科学研究会編『共同研究 転向』「序言」鶴見俊輔

*2:参考:増補改訂『新潮日本文学辞典』新潮社

*3:参考:岸健治「中野重治論ノート」1982.3『同志社国文学』

*4:本文は二字傍点

*5:本文「死んでくる」に傍点

*6:当時の思想検事

*7:参考:増補改訂『新潮日本文学辞典』新潮社

石原慎太郎『太陽の季節』読まれること

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石原慎太郎太陽の季節新潮文庫(昭和32年8月5日発行)

石原慎太郎が亡くなったという。

筆者が今の世に生きている証明というわけでもないが、少し書く。

太陽の季節』を読み直してみた。かつて読んだときに記憶していた、鮮やかさ、はちょっと見当たらなかった。時代が違うんだといえばそれまでだが、軽快で闊達で、暴力的で軽薄な文体の向こうにある、なんといったら良いのだろう、あまりの脆弱さと繊細さが目についた。

書かれている内容と、男性性への自信をにじませる文体だが、その被嗜虐性は、作者じしんの眼をも眩ませるようなところがある。なんとなく、今読み返すまでは気にもしたことがなかったが、作者が政治という現実らしい現実に身を置き続けざるを得なかった理由が、なんとなく、思われた。

最近読み直したせいかもしれないが、三島由紀夫の『沈める滝』を思わせる設定だ。

もちろん、と言っては故人に失礼かもしれないが、三島には比べるべくもなく、及ぶべくもない。三島は好感を持ったろうが、その目指すところは可愛げがあるくらい存外他愛ないのである。

じつは「書くこと」が何もないということを、文体で以て証明してみせたに過ぎないのである。

もちろん、その一方で、文壇的な通例をことごとく、意図的に踏み破ることで、新しさ、も生み出している。これを戦略的とみるか、あざとさとみるか、したたかさとみるか。または、意外に切迫した何かを書いたのだと、いささか過剰にその心事を読むか。いずれにしても、「読まれる」ことに特化はしている。

そういう意味では、メディアのまえに仮面なり本音なりを晒し続けなければ、存在を維持できない存在であったようだ。それは、あまりに正直すぎる生き方であったとも言える。

作家として、政治家として、テレビ・タレント、評論家として「読まれ」続けることは、果たして、彼にとって禍福いずれであったのか。

もちろん、筆者はそんなことまでは知らない。

憎まれっ子で差別主義者でミソジニーの典型、そしてもしかすると逆説的アメリカの手先で自民党の補完勢力の頭目で弟へのコンプレックスがとうとう晴らせなかった男でマザコンで矢鱈と読みにくい悪文を書いた作家で立川談志の理解者親友で子煩悩で東京都政を壟断した害悪で日本国総理を待望され死ぬ間際には作家に戻った男、彼。

その死を思うと、ちょっと息が詰まりそうになる。

もちろん、どんな人間であっても必ず死ぬということを再確認しただけだ。

冥福を祈る。

村上春樹『風の歌を聴け』転向をめぐって②

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村上春樹風の歌を聴け講談社文庫1982年7月15日第一刷発行

前回の記事を書き直したが、どうもわかりにくい。だしぬけに〈転向〉と書いたのがいけなかった。

dokusyonohito.hatenablog.com

このブログは行きがかり上、村上春樹の作品を少しばかり取り上げている。あんまり人に読まれないのも情けないから、せめて人の読んだことある作品を取り上げようというくらいのつもりである。
すでに書いたが、今現在、筆者は、村上春樹という作家について思い入れは特にない。読書をはじめた出発点にあることは確かだが、記念碑のようになっている。まさか、苔は生えていないだろうけれど、古いはなしに属する。

今回のタイトルに『風の歌を聴け』を挙げたが、こんにち的価値は半ば記念碑的になっている。それでも前回書きながら〈転向〉という切り口なら、ただのモニュメントにもならないなと思ったので、書く。

転向とは何か

今からふりかえって、〈転向〉がわかりづらいのは、歴史的な事象に属すると見なされている以上に、それがあまりに日常化していて批判が批判として成り立たないことにあるだろう。すこし説明する。めんどうくさい話かもしれない。とはいえ、なんとか分かってもらいたいのである。

本多秋五によれば、という但し書きをつけて吉本隆明が『転向論』*1の冒頭に書いている。

本多によれば、転向の概念は、つぎの三種にきせられる。第一は、共産主義者共産主義を抛棄する場合、第二は、加藤弘之森鷗外徳富蘇峰も転向者であったという場合のように、一般に進歩的合理主義的思想を抛棄することを意味する場合、第三は、思想的回転(回心)現象一般をさす場合である。

※筆者註:本多秋五『転向文学論』からの孫引きになる

補足すると、第一の場合はキリシタンの棄教みたいなものである。信じていたことを捨てる。これは「信じていた」という内面の哲学や思想を、果たして捨てると言って捨てられるものなのかどうか、というもんだいが残る。捨てた後に、共産主義なりキリスト教そのものに興味を持たなくなる、とした場合、吉本は「『無関心』的な転向」と呼んでおり、またいっぽう、〈転向〉しないことで時流から〈転向〉することを「『非転向』の転向」と呼ぶ。

第三は一般現象なので措くが、第二が第一とどう違うのかわかりにくい。

それというのも、〈転向〉という言葉じたい、「司法当局がつくったもの」で「当局が正しいと思う方向に個人の思想のむきをかえることを意味した」*2からだ。とうぜん、加藤弘之鷗外蘇峰のじだいに〈転向〉はない。筆者はキリシタンに喩えたが、正確にいえば間違っている。

鶴見俊輔ら、思想の科学研究会による『共同研究 転向』も、この〈転向〉のわかりにくさを説明して、なんとか言い換えの言葉を探している。

〈転向〉の主体者からすれば「思想の変化」「心境の変化」「思想の発展」「成長」「成熟」、それを強いた権力からみれば「屈服」「挫折」というような具合で、どれもしっくりこない。逆にいうと、これらの言い換えをすると、〈転向〉という語に含まれた、権力の強制に遭いながらも結果としては自分の意志で主義を捨てたこと、が捨象されてしまう。

現在は、自らくるくると意見を捨てて、より大きな権力の言うことに従うのが一般常識になっているから、何の不思議も見当たらないかもしれない。実はいかなる異論も存在しない世界。対立と分断の安全性はすでに検査済みだ。

さて、ところが、〈転向〉という現象によって、思想や哲学が屈折屈曲されられることをもんだいとした時代があったのである。この現象の最後尾をどこに見出すかは、なかなかむつかしいが、そのひとつに60年代70年代の安保闘争、学園紛争の終焉と、その〈転向〉があるだろう。

政治の季節とその終焉

風の歌を聴け』の「僕」は「文章を書くことは」「自己療養へのささやかな試み」であると冒頭近くで記す。

しばしば現れる「書くこと」じたいへの懐疑は、多くのファンと追従者を生むいっぽう、誤解と反感をまねいた。

それそのことを明らかに指呼しないことは現実への「無関心」を決め込んだファンと追従者を生み、「書くこと」の自明を疑わない者たちからは格好つけのポーズだと誤解され、反感を持たれた。

すでに指摘しつくされているように、作中のデレク・ハートフィールドなる作家はフィクションで、この仮構の作家をめぐる偽史が、かろうじて本作のあらすじらしきものを支えている。仮構が仮構を支えているという、いささか複雑な構造をしている。

つまり、現実全般を構成し成立させているすべてのことに懐疑があり、それが「僕」の自己言及的な文章ともなっている。へんな言い方になるが、懐疑が懐疑をなんとか支えているような文章だ。

しかし、本当のことにさえ、いや、本当のことにこそ、「僕」は疑心を抱いている。

「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。」
鼠はカウンターに両手をついたまま僕に向って憂鬱そうにそうどなった。

村上春樹風の歌を聴け』より引用。本文は全文に傍点。

「金持ち」が「ダニ」で「虫酸が走る。」と口にする「鼠」の話に読者が同意するのか反論するのか、筆者はしらないが、不可解なことではある。

「僕」と「鼠」の出会いが作中から「3年前」で「僕たちが大学に入った年」。そして「人間は生まれつき不平等に作られている。」という真偽不明のJ・F・ケネディの言葉。

ちらばった断片を手にすることで、「政治の季節」の終わりが背景にあることを読者は知るだろう。安保闘争の終焉が、政治闘争だったかどうか、ただの流行だったのか、議論の余地はおおいあるだろう。けれども、多くは「いちご白書」のように〈転向〉していき、まるでなにごともなかったかのように、終わりを迎えたのである。

現在から、その時代を知ることは難しい。それは、かつての共産党の〈転向者〉同様、かれらも自らの背信について口をつぐんでしまい、今なお語らないからである。たとえば左翼の理論家から右翼言論の気鋭になりおおせた者、活動家から大企業に就職した者、ファッションとして受け止めすんなり捨てた者。

もちろん、言及した著作はある。山ほどある。しかし、どう読んでも実態がわからない。筆者はその時代を生きていないから、さらにわからない。

すでに書いたように、それらは「思想の変化」「心境の変化」「思想の発展」「成長」「成熟」「屈服」「挫折」というかたちでなら読める。なんとか読める。しかし、本質的な、核心ぶぶんが意識的、無意識的に、巧妙に避けられているのである。

〈転向〉という言葉にまつわる「恥」とか、後ろ暗さとか、そういうごまかしに言及しているものが見当たらない。単に露悪的だったり、自虐的なたわむれに過ぎないものだったり、美化したり、他人のそれを語るような懐古だったり、する。

日本への回帰

これらは、総体的にいって、〈世間〉や〈社会〉とは結局そういうものである、といういかにも日本らしい〈日本への回帰〉に帰着してしまうことをあらわしている。

しばしばそれは〈現実的〉とか〈現実〉という言葉で語られるものだ。みな〈転向〉したあと、〈日本〉という〈現実〉へと帰ってゆく。これなら、今でもなんとか思い当ってもらえるかもしれない。

いいかえれば、〈理想〉と〈現実〉との対立がかならず後者の勝利に終わることへの疑問が発生しないのである。理想理念は捨てられ、次の新たなそれへと飛び移ってゆく。この移り際に、なにか不透明なものがあるはずなのだが、それが、ふつうのことだ、という常識の範囲で処理されてしまう。あるいは、社会に出て大人になる、というふうに理解されてしまう。

そんななかで、どうみても政治的ではない「僕」と「鼠」だが、こうした〈理想〉も〈日本への回帰〉も拒絶しているのである。

コミットメントも協力もしないし、するつもりもなく、むしろ「政治の季節」を苦々しい思いで眺めていたに相違ない。そのシニカルさは〈転向〉を横目に見ながら、軽蔑し、苛立ち、堪えかねるものを堪えているようだ。それを象徴的に、「金持ち」と言った「鼠」は「虫酸が走る」と言うのである。

左翼思想という、社会の改革やあるいは革命、既存の旧弊した権力との対峙を骨子とする思想のうしろにあるそれを、〈時代の精神〉とよぶなら、もののみごとに〈日本への回帰〉という〈転向〉を果たしてゆく、そのありさまは、その思想と〈時代の精神〉への裏切りと言っていいだろう。

しかも、これは単なる裏切りに終わらないのである。その〈日本への回帰〉によって、その裏切りが、なかば正当化、自分と家族が生きるためにはしかたのないことだ、という自己瞞着を生み、当人にも本心かどうか見分けがつかないくらいまで塗りつぶされてしまうことに、一番のもんだいがある。

ゆえに、「僕」と「鼠」は、逆説的なことに、反感を持っていたはずの〈時代の精神〉を、ある種の、誠心誠意をもって引き受けることになる。その自己瞞着への、抜きがたい疑問と激しい疑心があるからだ。

これは、前回『李陵』で書こうとして書き損ねたことにも繋がっていて、ほとんどの人びとが感応せず、省みもしない、道徳とはまるで別個の、過剰なまでの倫理的な潔癖さ、と呼んでもいい。

ここに、先に挙げた吉本隆明が説く「『非転向』の転向」が生まれる。

この「『非転向』の転向」の立場は、もとより〈転向者〉の立場ではないが、その単なる批判者、糾弾者の立場でもない。

〈理想〉と〈現実〉を使って説明すると、彼はもともと〈理想〉に賛同していない。そして〈現実〉にはなおさら賛同していない。〈現実〉が〈理想〉を回収してゆくことじたいへの疑問と批判があるという、現実にあるのかどうか実に危うい立場に立つことになる。

風の歌を聴け』の文体

こうしてみると、感傷や追憶として読まれることは、「僕」と「鼠」がたんに時代遅れである、時流の変化に取り残されたように読めてしまうし、アメリカナイズされた描写と風俗は、空想の格好つけに読めてしまう。

そんなわけはない。

作家が、任意でお好みの文体を選び書けると思うことこそが空想だと言っていい。必ずやその文体でなければならないのである。〈理想〉でも〈現実〉でもない立場から書かれることを目論んだこの作品は、日本語で書かれながら、日本のどこにも帰属しない文体で書かれなければならなかったのではないか。

村上春樹以降という言い方をすると、それ以降、追従者と真似とこうしたファッションが流行定着した。こんにちからは、実に見えにくくなっているが、この日本に帰属しない、もしくは限りなく遠い文体は、「僕」と「鼠」の「『非転向』の転向」の物語のために創出されたものだ。

軽妙とも軽快とも称される文体は、インテリや知識、理知、思想への強い不信が見て取れる。かんたんに言う。

それは、偉そうなことを賢げに言ったくせにかんたんに変節し、恬としてそれを恥じ入りもしないのが知識と思想なら、そんなものに依存して書くことはけっしてしまいという作家の意思のあらわれだ。

とはいえ、作家は、一般大衆へ迎合して〈現実〉という〈日本への回帰〉もできない。

また、この文体は、しばしば自己韜晦として批判される文体でもある。

これは、それをそれと指呼した瞬間に誤解される日本語文への批判であり、拒絶である。たとえば、「あれは政治の季節が終わった頃」と書いた途端に、自動的に論理が再生される文脈から離れるための装置であり、武器でもある。

〈日本的文体〉が日夜膨大な〈日本的社会〉を再生産していることは、改めて指摘する必要もないだろう。政治の文体、小説の文体、週刊誌の文体、新聞の文体、すべては用意されていて、みなその中で決められたリズムを刻む。そしてリズム以外のことは言うことも、書くこともできないのである。

これへの批判が、作中作家が何度も言及することになる「書くこと」への懐疑である。

決められたリズムの中でそれを刻むだけだから、その論理の完結性は非常に高い。しかし、それは、それぞれの文体のなかだけでのみ成立するもので、論理的整合性が高いということはそれだけ隠蔽、遺棄されたものが多いということでもある。

だから、作家じしんが「ジャンク」とか「寄せ集め」と称したこの小説は、隠蔽、遺棄されたものを暴き、拾うことができる。少なくとも、書きとめることができたのではないか。

言うまでもなく『風の歌を聴け』は、村上春樹が、どこでもない場所から、どこでもない場所へ向かい始めたデビュー作。過去の記念碑とするには読みつくせないほどの価値がまだまだあるようだ。冒頭筆者が記したことながら、最後に訂正しておく。

 

 

 

 

*1:吉本隆明吉本隆明全著作集13』「転向論」

*2:思想の科学研究会編『共同研究 転向』(平凡社上中下)より引用。

中島敦『李陵』転向をめぐって①

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中島敦『李陵・山月記新潮文庫(昭和44年9月20日発行)

『李陵』概略

中編小説。昭和18年7月『文學界』。昭和21年、小山書店初版発行。

あらすじを記す。

武帝の治世。李陵は匈奴との戦に敗れ捕縛される。武帝はその敗報に赫怒し、李陵の罪を臣下に諮る。帝に阿る諸臣は李陵を讒言誣告するが、ひとり太史令だけが大いにその忠勇を弁ず。司馬遷である。これによって遷は宮刑を受く。いっぽう匈奴に囚われた李陵は、単于に下ることを潔しとしなかったが、老母妻子弟が悉く殺されたことを知るに及び、匈奴に下る。李陵は中郎将蘇武が胡地になおあることを知る。蘇武は節を曲げず、十九年。その地にあった。やがて武帝は崩じ、陵と武は許される。蘇武は帰国を果たし、李陵はその地に残る。司馬遷はそのころ『史記』を完成させ、死去。李陵の死没、年号はつまびらかでない。

中島敦の漢文体については既に書いた。

dokusyonohito.hatenablog.com

作品のタイトルを論うのはよい趣味とは言えないが、李陵・司馬遷・蘇武の三者いずれも等しい比重で書かれているから、『李陵』と題するのは不思議な気もする。

はじめに書いた通り、昭和18年に発表された作品だが、前年17年12月4日に中島敦は没している。『山月記』も発表こそ生前に間に合ったが、17年2月のことである。作品発表とその反響という、書いたものと書かれたものの行末という、言語営為の果てを彼が見ることはなかった。毀誉褒貶とはいうが、批判悪罵嫉妬こと挙げその他訳のわからぬ馬鹿のたわごとに付き合ういとますら、中島敦になかった。神かなにかはしらないが、人の境涯とは無残なものである。

ちなみに、ふと気になって調べたら、武田泰淳の『司馬遷』も昭和18年であった。

年号のはなしばかりで恐縮だが、昭和16年真珠湾攻撃、太平洋戦争が開戦している。

いわずもがなの話だが、『山月記』も『李陵』も戦時下の文学である。

転向

文学史ふうにいえば、プロレタリア文学の崩壊から文芸復興期、そして太平洋戦争下での戦時下文学、というように辿れる。

昭和5年から本格的な左翼への弾圧がはじまり、昭和7年(1932)、いわゆる<32年テーゼ>という社会主義革命の決行を迫る声明のあと、文学の世界ではプロレタリア文学が徹底的に弾圧された。後世からみれば、超国家主義完成のちょうどいい踏み台になったようにも見える。

彼らの政治活動は結果として国家を大いに利した。社会批判の牙城を滅ぼしたことで、翼賛体制に向かう日本の国家と社会を止める勢力は、国内のどこにもなくなったからだ。

そして社会批判という根を失った文学文芸が流行する。世に、文芸復興期と呼ばれる時代であるが、もちろん、皮肉、である。しかし、ここで見ておきたいのは、谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫堀辰雄ほか、こんにちブンガクだと思われている作家たちはプロレタリア文学の退潮と消滅のなかから浮かび上がったものだということだ。

いっぽう、<転向>がもんだいとされるのも、この頃である。

今からみると、ひどくわかりにくい。政治犯、おおざっぱにいえば社会主義者たちであるが、彼らを捕縛投獄した日本国家は、彼らに<転向>をせまった。その信奉する主義を捨てると誓えば、多くは、許されたのである。

日本特有のやり方である。

諸外国の政治犯ではありえないやり方だ。

これは、一度言い出したことから<変節>すれば、彼らは日本の<世間>のなかでもう生きていけない、二度と活動は続けられない、という日本の風土と社会を利用した、実に狡猾なやり方である。

もちろん、中には転向を認めず獄中に残った者もあるにせよ、多くのプロレタリア文学運動に参加した作家は、なんらかの<転向>という節を曲げることを強いられ、結果として自ら<転向>を選んだのである。

絶対的な、強圧的な権力を前にしながらも、結果としては自分の意志で<変節>にいたった自身をどうみなし、どう考えるのか。かんたんな善悪では計れない。見かけほどたやすい問題ではない。

戦時下の転向文学

『李陵』は昭和18年7月『文學界』に発表されたとは既に述べた。

時代はすでに戦時下に入っていたが、ここまで文学史ふうに記したとおり、本作はある種の<転向文学>とみるべきだろう。

作中で、李陵や司馬遷が「恥」についてしばしば言及するように、ここでの「恥」は内面の問題ばかりではない。<世間>が個人をに対して科する制裁である。その「恥」でもって個人を搦めとってその口をふさぐ日本特有の<文化>を利用した政治・言論に対する制裁である*1。そしてこの「恥」は彼らが<転向>したことによって、あるいはしなかったことによって<世間>から科せられる。

この<世間>は作中司馬遷

全躰保妻子の臣(くをまっとうしさいしをたもつのしん)

中島敦『李陵・山月記』より引用

と呼んだものだ。家族のためと嘯きながら、保身に生きる臣下。もちろん、ふつうの、安全な生き方である。これに怒るとすれば怒るほうがおかしい。家族とともに幸せに暮らして何が悪い。法に触れたわけでなし、武帝の意向を汲む、つまり<空気>も読めないで、いたずらに正義を弄するものこそ処罰されるべきだ。世人みな<転向>しているのに、遷のみが<転向>に応じない。

そんな男は、あたうかぎりの恥辱を与えて、思い知らせてやるに限る。ゆえに、太史令司馬遷宮刑という「恥」をたまわる。

憤怒と恥辱にまみれた遷はこう言う。

このような結果を招くものは、結局「悪かった」といわなければならぬ。しかし、何処が悪かった? 己の何処が? 何処も悪くなかった。己は正しい事しかしなかった。強いていえば、唯、「我在り」という事実だけが悪かったのである。

※前掲書より引用

ほんとうに「正しい」だろうか。それとも間違っているだろうか。人間の規範となる善悪の道徳ではちょっと捌ききれない問題である。

かたや李陵は、捕縛はされたが「心」は売っておらぬと頑張る。一敗地にまみれたが、単于の首を取り、都へ戻ればすべては挽回されると夢見ている。陵の「心」を保証しているのは宮廷、都の人心、すなわち<世間>である。寡兵にて難地強兵に当たらせた<世間>にまだ幻想を見ている。だから、その「心」は彼のものではない。彼のもとに「心」はない。

ゆえに、陵は遷がかれの為に弁じたことを知っても「別に有難いとも気の毒とも思わな」い。陵みずからが自分に見出している義心は、<世間>のものだ。厳しい言い方をすれば、その<世間>を当て込んだ功利心だ。だから、老母妻子弟が悉く殺されたとき、陵は<転向>し、匈奴に下るのである。李陵は間違っているか。それとも「正しい」か。

そして蘇武がいる。李陵をして「痩せ我慢」を「大我慢」にまでなしたと言わしむる彼は何者であろうか。「持節十七年」はのちに顕彰されたが、武帝の崩ずることがなければ犬死に死ぬしかなかったはずの男である。武の存在は陵を不安にさせる。ここに至って、李陵は自身の「心」を見出す。

しかし、蘇武のそれは語られない。<転向>しなかった、というただそれだけが語られる。李陵が蘇武の「心」を思うのは、陵が陵の「心」と対話しているだけだ。<世間>は蘇武の忠節を讃嘆するに至るが、蘇武が「持節」して過ごしたそれが、果たして忠義なのか、いったい何なのかを知る者はないのである。人は、<世間>は、知りもしないことを絶賛、賛美、賞賛する。これに抗弁、これをいくら批判しても、けして<世間>は絶賛、賛美、賞賛をやめない。蘇武は「正しい」のか。間違っているのか。

 

戦時下、すでに戦後をにらんださまざまな清算が始まっていた。

中野重治などもそうだが、<転向>はたんに権力に屈したとか、抵抗したとかいう二者択一の選択のもんだいではなく、じぶんの唱え信奉した主張や思想を、じぶんで否定することによって発生する、生き方や倫理のもんだいである。

これが現在ひどくわかりにくいのは、最近、大塚英志が書いているように、現在が<戦時下>だからである。<転向>はその中にあると見えないのである。

<転向>を悔い、懺悔告白したからといって、それで済むものでもないのも<転向>の特徴で、ある。ブンガクに書いたからと言って必ずしも清算されない。

早世した中島敦はそれに拘わることはなかったわけだが、心事を司馬遷に仮託している書きぶりが傷ましい。もちろん、そこいらじゅうに、李陵や蘇武がいたわけだと読めないこともないが、当て込みをしだすと面倒なことになりそうなので、ここまで。

 

 

 

*1:ベネディクト『菊と刀

村上春樹『嘔吐1979』日記の疑念

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村上春樹回転木馬のデッド・ヒート講談社(1985.10.15第一刷発行)

「今は亡き王女のための」について書いてから間が空いた。

dokusyonohito.hatenablog.com

筆者はサルトルの『嘔吐』を読んでいた。なんと面倒なことだろう。今回取り上げる短編(あるいは「スケッチ」)は『嘔吐1979』だ。

こんにち、サルトルがどういう評価になっているのか筆者はしらない。ただ、大昔、というのは戦後から1970年代くらいまで、ものすごく人気があったようだ。

類似点、翻案、影響などをリストアップしてもいいが、出来の悪いレポートを見せられては読者も迷惑だろう。手短に言う。

サルトルの『嘔吐』

そもそも、『嘔吐』は正確には嘔吐「感」である。いっぽう、本作はそれそのまま。尾籠な話だが、じっさいにひたすら吐いている。前者が「不快感」に苛まれるのに対し、後者は「不快感」はない。

『嘔吐』の主人公ロカンタンが、外界の物質に覚える不快感を「存在」として見出し、人間も含めた「存在」が「本質的に」「偶然」であると見出すようなことは、本作「彼」には起きない。手軽な不倫をつづけ、食べ、飲み、ただ、吐く、だけである。

ちなみに『嘔吐』は、このタイトルに決定するまで候補がいくつかあったらしい。そのひとつが、『アントワーヌ・ロカンタンの驚異の冒険』で、読後解説を読んでいて得心がいった。「存在」の「偶然性」をめぐる主人公ロカンタンの「冒険」ばなしとして読める。

さて、比較はこれくらいにしよう。まずは目の前の作品を読むことだ。

「電話」の呼ぶ名前

「嘔吐」は生理的身体的な反応である。「吐き気をもよおす」と言った場合、論理思考を拒絶して、感情的に、生理的に受け付けないことを指す。もちろん、「もよおして」いるだけで、実際には吐かない。いっぽう、異物を、腐敗物を、飲み込んだ場合、消化器である胃から逆流する。どうも汚いはなしがつづく。

彼の「嘔吐」の日記*1は、吐いたことを書く一方で、彼の食べた物のリストでもある。「ハムとキュウリのサンドウィッチ」にはじまり、「鰻」「マーマレードつきのイングリッシュ・マフィン」以下略。

そして、彼は

彼が出ると男の声が彼の名前を告げて、そして電話はぷつんと切れた。

村上春樹回転木馬のデッド・ヒート』「嘔吐1979」より引用

という電話を毎日受けるようになる。

「嘔吐」という不条理に、電話がかかってくるという不条理が重なる。

不条理は、じしんの予断が裏切られたとき主観的に見いだされる。よって、人はかならず必然を見出そうとする。たとえば歴史は、時間の累積がただ積み重なることに人間が耐えられないことによって生みだされる。

「嘔吐」をつづける彼も、不条理の必然を見出そうとするが、彼の暮らしに必然はないのである。きまぐれな不倫に親密性を見出したり、ヴァリエーションに富んだ酒と食事を済ませたり、結婚に懐疑的なことを言ってみたり。必然に帰結する行為を回避している。あるいは「僕」が現実的な対応、病院、警察などへの相談と協力を願わなかったのか、という当然すぎる疑問に対しても、彼はその「現実的」そのものを否定する。「嘔吐」はこの「現実」の拒否であろうか。

要するに自分一人の力でなんとか片づける以外に方法はないんです。

前掲書より引用

偶然から必然に帰結するものを「現実」と呼ぶなら、彼によって偶然から必然に向かう道は閉ざされている。彼は偶然という不条理の虚空に、宙づりにされているとも言える。

そのことを彼に知らせるように「彼がひとりの時に」電話はかかってくる。普通に読めば、この電話の主の声は、彼じしんであろう。外的に、電話がかかってきているかどうかを保証する客観性はどこにもないのである。

ひとりきりの人間が、自分が自身であることを証明するすべはない。それは社会的役割や人間関係のなかで構成されるものだからだ。かろうじて、自身で確認できるのは、自身の「名前」だけである。

だから、「電話」はかかってこなければならない。「嘔吐」という拒否と否定をつづける彼じしんを保証しているのは、「電話」が彼の「名前」を呼んでくれるからだ。

これが、内面の声でもなければ、もうひとりの自分の似姿でもなく、機械の電気信号であることは、電話によって繋がったと誤認される人間関係を思えばいいだろう。電気信号でも、人間は孤独ではないと思い込めるのである。

「嘔吐」したのか?

さて、ここで筆者は迷っている。

彼はほんとうに「嘔吐」したのか、という疑問である。

彼自身「分裂症」を疑っているが、作品を読む限り、「電話」同様、これを裏付ける根拠は見当たらない。「嘔吐」も「電話」も彼がひとりのときに発生している、と読める。

すると、「嘔吐」は「現実」の拒否である、と先に筆者が書いたことは成立しない。

ここでサルトルの『嘔吐』にひきよせて読むなら、ほんとうは、彼の「嘔吐」は、彼自身の「冒険」でなければならなかったはずだ。冒険への召命から始まり、難関難題を乗り越えて、エンディングまでたどりつく物語。

それなら、彼の「日記」はある種の冒険譚をつづった物語、になるはずだ。ずいぶん尾籠な物語ではあろうが、本作末尾で「僕」が言うように、「学び」はあったはずだ。得たもの、失ったもの。教訓。反省。なんでもいい。

「日記」の証明

本作の彼の話は、彼の話というより、彼の「日記」の話である。「日記」がもとになっている。「嘔吐」と「電話」は、「日記」に書かれた物語だと言える。彼がどれほど正直に事実を書いたと主張しても、彼にはその真偽を証明するすべがない。まして、必然性による「現実」を拒否する彼にとって、必然の累積である「事実」とその「日記」とは何だろう。

作中には、リアリティの根拠になるはずの、小道具や年号日付がちりばめられているが、これらが集積するほど彼じしんにとってのリアリティは増し、じぶんで疑うことができない状況に追い込まれている。

彼自身が言うように、いっそ「分裂症」ならいいのである。

そうではなくて、「現実」を拒否していると目される「嘔吐」じたいが、「日記」のなかだけに存在し、それを証明することができないまま、彼はその「日記」という「現実」を生きなければならないとしたら。

「分裂症」が幻覚妄想に支配されるとするのは、対置される「現実」が保証されているからである。サルトルの『嘔吐』のロカンタンが奇妙な現実の歪みを意識できるのは、「現実」の確かさがゆらぐからだ。

しかし、「現実」そのものを担保する確かさがそもそも成立していないならば、人は「分裂症」になることもできない。

このへんの、危うさと曖昧さは、彼と「僕」によって、本作末尾で問答される。

理由なく始まったものは理由なく終る。逆もまた真なり。」

「嫌なことを言いますね」(中略)「ねえ、ほんとうに来ると思います?」

「そんなことわかるわけないさ」と僕は言った。

(中略)

「あるいは、それは今度はぜんぜん別の人の身に起こるのかもしれませんよ。

前掲書より引用

……ほんと「嫌なこと言いますね」。

 

 

*1:サルトル『嘔吐』も日記の形式である

樋口一葉『たけくらべ』音の読書、意味の読書

ずっと気にしていて未だわからないのが一葉である。

略歴

樋口奈津一葉は明治5年3月15日東京府に生まる。*1

奈津、夏子、なつ、とも言うが、本名は奈津らしい。歌人としての雅号を夏子。新聞投稿には浅香のぬま子。春日野しか子。

いくら筆名とはいえ、浅香の、に、春日野、はあんまりだ。

八丁堀同心の子で明治になっても父則義は警視庁属官、長兄泉太郎は大蔵省勤務で、裕福ということはなかったろう。

明治19年、教育は中島歌子の萩の舎に学んだことが知られている。萩の舎は和歌と書の学校である。当時、上流階級の子女が多く、ある種のお嬢様教育の学舎であったらしい。

しかし明治20年、22年に父と長兄を亡くす。やがて早世する一葉の命を奪う肺結核である。樋口家は没落し、生活は困窮をきわめた。

そうした中、文名を挙げることは家名を負った一葉のひそかな願いになる。

半井桃水の弟子となるが恋愛関係に陥り、決別。父と兄の急逝後、逼迫した家計をささえるために小商いの店を構えるも、後に小説に専念。発表した作品は露伴、鷗外の絶賛を浴びたが、一葉に余命は残されていなかった。

明治29年11月23日、結核により死去。享年かぞえで25歳。

音の読書、意味の読書

いまでも、一葉は女流文学の祖のように位置付けられている。その内容という〈意味〉を敷衍拡大して受け継いだ作家はあまたある一方で、文体を受け継ぐ者はなかったという、そんな作家である。

もちろん、一葉死後に、言文一致運動が自然主義に収斂し、擬古文体が放棄されたからだが、今回は『たけくらべ』の文体をめぐって思いつきを書く。

一葉は、古典和歌の素養があった上で、半井桃水の弟子となり、江戸の戯作文体も身につけていた。それは会話文に見え、会話に入ると文章がすっと軽みを帯びる。地の文に戻ると、平安文学の仮名文の流暢さと、江戸期の草子物にみられる文体と軽妙さが効いて、小気味がいい。掛詞、体言止め、はともかく、き、けり、ぞかし、の文の閉じ方は、現代日本語が失ってしまったものである。

また『たけくらべ』は便宜上「、」「。」が打ってあるが、実は要らない。近代以前の日本語にはなかったものだ。

「廻れば大門の見返り柳いと細けれど、」から始まる書き出しとその第一章は、そのままいくつもの「、」を挟んで連綿とつづき、数十行経てこの第一章末尾の「何処やら釈といひたげの素振なり。」でやっと結ぶ。

源氏物語』の「いずれの御ときにか」から「御局は桐壺なり」までの連なりを想起するとわかりやすい。

これは古典語の、「き」「けり」「ぞかし」他、体言止めが、現代日本語で言う、「だった」「だったそうだ」「ことだよ」と必ずしも対応構造になっていないからではないか。直接の過去、伝聞の過去をあらわすと学校では教わるが、古典語の文は助動詞で必ずしも閉じない。体言止めにしても、必ずしも「止まらない」。閉じないまま次の文が始まるのである。いってみればそこに糊しろがあって、文が終わらないまま、次の文を重ねて続くのである。

武士は人の鑑山*2、くもらぬ御代は、久かたの松の春。千靏萬龜*3のすめる、江州の時津海。風絶て浪に移う、安土の城下は昔になりぬ。*4

言葉と言葉のあいだに糊しろがあって次々継いでゆくから、文章自体は短くて内容は豊富になるわけだ。

擬古典派などと呼ばれる紅露逍鷗が、これを捨てかねた合理的な理由はあったのである。彼らなら自然主義派の半分以下の分量で同じことを言う。

「、」「。」これが元々の日本語にはなかったものだとは、すでに言った。近代の印刷以前は、適宜分かち書きにすればよかったから、これは無用であった。さらにつけくわえれば、絵巻物や画讃に見えるように、〈書く〉ということは見た目の姿、その美学にかかわることで、近代的な〈意味〉にかならずしも拘束されない。

例えば和歌の書記法は、現代日本語なら、〈意味〉に縛られて、切れないところを平気で切る。散らし書きはそういった美学の産物である。

たけくらべ』の「、」は一見〈意味〉で区切られている目印に見えるが、よく読むと拍子、音律〈リズム〉で区切ってあるのが分かる。現代日本語の読み方で読むと読みにくいのは、こんにちの読み方が〈意味〉で読むからだ。

そういった観点からすると一葉の文体は音楽に、近い。正確にいえば、文章と音楽が未分の状態にある。背景には、とうぜん、「音読」の文化があることは言うまでもない。「音読」は読んで聞くものだが、耳で聞いて〈意味〉を拾うのは至難の技だ。

また、一冊一編を読み飛ばして投げ出す文化もなかったろう。玩味熟読、読書百遍は、金言箴言のたぐいではなく、読書文化そのものであったはずだ。

現代日本語は〈意味〉に束縛されている。読み飛ばしが可能なのも〈意味〉ゆえである。論文は斜め読みに読めるが、『たけくらべ』をななめには読めない。

文庫本の解説をみたら、「リアリティ」と書いてあった。しかし『たけくらべ』には近代文学を成立させ、そののち脅かすにいたる「リアリティ」はないだろう。

写実主義は、文学史上、言文一致に結実したことになっている。「リアリティ」の元だねは、写実主義という、一生懸命自分の目でみたことを正直に書くこと、ではなく、「、」「。」と末尾の結び語で、〈意味〉を分化させたときに生まれたと見たほうがよい。創造的ではなく、かなりのぶぶん、純粋に「技術」「技法」のもんだいであったのではないか。

早逝した一葉は、それほど多くの作品を残したわけではない。こころみに、筑摩書房の『樋口一葉全集』全4巻・別巻2巻のもくじをながめて見ると、発表された小説は幾編もない。未定稿、断簡、資料、日記、和歌を除いたら、一巻はおろかその半分もなさない。逆にいえば、全集のほとんどは小説ではない。

ここに一葉を読んだあとに残る感興をあらぬ方向にみちびく陥穽があるようだ。

たとえば和田芳恵浩瀚といってもよい研究がある。ざっと見ただけでもさまざまな女流作家の手による評伝がある。筆者は、文学研究家が作家という人物を調べることを否定も肯定もしない。搦め手から回れば楽屋が割れるという考えを、その不思議を思うだけである。

また、この人物研究からは影響関係という、よく考えるとなんだか分からない見方が出てくる。前回筆者も、半井桃水の戯作の「影響」だなんて書いた。こう書くと便利は便利なのだが、じゃあそれが何なのかと指し示すことができるかと言うと、できない。なあんにも言っていないとの同じ、という場合がしばしばある。

そもそも、筆者は研究家でも評論家でもない。読者である。目の前の本を、じつに低級に読み流す読者である。人物と影響との関係、相関図がないと読めない本は、本として致命的な欠陥があるとみなさざるを得ない。詞書のある詩歌のようなものだ。あまり良い趣味ではない。

それでは何を〈読む〉のだろう。

内容あらすじに言及する向きもある。しかし、これもそれ自体では、とくに何のことはない。〈情報〉の授受が言語の目的だと開き直っているようなものだ。すでに述べたとおり〈意味〉の束縛、である。この束縛のなかで読めば、一葉の小説は、時代背景と生活の困窮と悲哀、社会における女性と女性性をめぐる文脈で読まれる。それより他に読みようがあるだろうか。

しかし、この〈読み方〉だと、『たけくらべ』は読めない。子供の世界を描いたファンタジーのような読まれ方しか残されていない。

読んでいるときに読者が経験したことと、〈意味〉として語られることの乖離が、読者である筆者に、ある種の居心地の悪さを覚えさせる。そんなこと、書いてあったかしら、と思うのである。

筆者は早計なので、一葉の文体に近代的な〈意味〉はない、と書いた。この場合の〈意味〉が、ABCどれでもない、ともここまで書いた。無用に、読んでくださっている方を混乱させる意図はない。一葉が『たけくらべ』で成したこと、を知りたいのである。

近代的な〈意味〉は、作者のあとをついてゆくことで辿れる。論旨、文脈、描写、いずれもそうだ。これを読んで読者は〈意味〉を見出す。前回、文学と音楽が未分の状態にあると言ったが、音楽、とりわけ音には〈意味〉はない。たとえば街の雑踏に〈意味〉を聞き取るようになれば人は狂を発するだろう。あるいは、物、に意味を見出し始めるのも同断である。もちろん、近代的〈意味〉のいとなみは、万象にそれを求めるわけだが、反対からみれば、それに束縛されている。

たけくらべ』は、こうした〈意味〉を無理に読むことをやめれば読めるのである。少なくともの筆者は、そう読んだ。

文体が、平安仮名文学から江戸戯作までの〈影響〉にあることは誰が見てもわかるが、古典世界の文学とは、〈意味〉ではない。古語の「言霊」は、けして〈意味〉ではない。言葉そのものをそれ自体として崇め恐れるものだ。近代文学から、ぎゃくに古典世界を照射することで無理やり〈意味〉が見出されるが、もともとそれらの言葉、文体には、他の〈意味〉に翻訳されうるものではない。

話がややこしくなりすぎたようだが、読んでいる方、今回は諦めてください。このまま続けます。

また、『たけくらべ』は漢語と漢文体がていねいに取り除かれている。漢文学は〈意味〉の体系だからだ。一葉が『うもれ木』を書いたときには、明らかな露伴の影響下にあったものが、本作に至って、そこから離脱している。

一葉が、〈意味〉の体系からの離脱をもくろんでいたとすれば、これは言文一致のなかにあって、孤独な行為である。「過大」とも称される露鷗の賛辞*5は、この孤独を見抜いた者の少なさを物語っている。世人こぞって、今にいたるまで、〈意味〉に汲々とするなかで、まったく違う道を見つけ、歩んだからだ。

一葉が書いたのは、言葉そのもの、文そのものである。

自己表現でもなければ、苦衷の吐露でもなく、まして〈意味〉をめぐる戯れでもない。露伴の小説は、該博な知識と漢語の戯れからやがて書かれなくなった。鷗外は歴史小説という出来事そのものに向かった。その他の作家は言うに及ばない。それらと全く違う彼岸に一葉は達したのである。

一葉の文体に後継がないのも、彼女の文体が、〈意味〉から懸絶しているからだ。〈意味〉という中身を運搬する器として、一葉の文体はできていない。そっくり真似するか、まったく真似しないかの二択である。〈意味〉を抜き取ろうとすると、たちまち一葉の文体は壊れてしまうのである。

ゆえに、独自ではあるが、けして堅牢ではない。

前回、古典日本語の「糊しろ」と言ったが、短冊を継いだ紙細工みたいなところがある。萌黄、桜いろ、山吹茶、紅藤色に胡桃色、色とりどりの紙細工に、どうして〈意味〉を求める者があるであろうか。

 

 

*1:増補改訂『新潮日本文学辞典』新潮社参考。

*2:かがみやま

*3:せんかくばんき

*4:西鶴『武道伝来記』第一巻「心底を弾琵琶の海」岩波文庫より引用

*5:本書あとがき

コンラッド『闇の奥』絶望的な想像力

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コンラッド『闇の奥』岩波文庫(1985.1.25第一刷発行)

小説を読んでいるとたまに書籍とその書名が出てくる。

小道具としての場合もあるし、暗示だったり、象徴だったりする場合もある。

それが知った本なら親近感が湧くし、知らない本なら知見がひろがる。

まして愛読している著者の示した知らない本なら、その本はほとんど友だちの紹介みたいなものだ。そうして本は本を呼ぶのである。

ノルウェイの森』にコンラッドが出てくる。ジョウゼフ・コンラッド(1857-1924)。主人公がなんども読み返している作家だ。今となってみれば、なんてやつだと思うが、筆者は若年すぎてさぞ素敵な本に違いないと思ってすぐに読んだ。『闇の奥』である。勘違いだけでも、意外と人生はひろがるという一例である。

もちろん、主人公がコンラッドをどう読んでいたかは、正確には描かれていない。いなかったはずだ。手元に上巻がないのでわからない。

ただ、類推すれば、ラヴクラフトの小説のように読んでいたんじゃないかと、今なら、思う。

『闇の奥』は、文明から隔絶したアフリカの奥地からさらにその奥地に、文明と人間性の深奥を見る、という小説だ。懊悩するような得体のしれない不安を、なにか絶望的な想像力で満たそうとするところ、両者似ていないでもない。

漱石に「コンラッドの描きたる自然について」という小文がある。人物を圧するくらいの、自然の描き方がよいと褒めている。自然は登場人物が動きまわる舞台の背景だ、というくらいの理解。ちょっと面白い。読み方の、時代が違うのである。

また、『闇の奥』の船乗りマーロウが、救いようのない場所へ向かうのも、『ノルウェイの森』のワタナベくんに似ていないこともない。巻き込まれるように見えながら、すこしづつ自分で赴いてゆくあたり、好んで火中の栗をひろいにゆくようなところがある。これで不幸にならないわけがない。

もちろん、繰り返しになるが、今となってそう思うだけで、はじめて『闇の奥』を読んだ筆者は、なにがなにやらさっぱり分からなかった。分からなくて頭がもやもやする小説だと本を閉じたはずだ。

そういう意味では、得体のしれない不安、を感じ取ってはいたようだ。

中らずとも遠からず。理解にはほど遠いが、直観的にはなかなか中っている。そんなことも、若いうちは、あるらしい。

 

 

 

中上健次『中上健次発言集成』神さまの名前

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中上健次中上健次発言集成』他 全5巻 第三文明社

著名な芸術家が、まだ神さまだった時代の発言集、対談集である。

日本と日本語の発生このかた、ずっと通底していたけれど、誰もそれに言葉を与えなかったため、存在しないとされてきたそれに言葉を与えたのが、彼である。素行や発言、風貌やまなざし、一挙手一投足がそのまま「文学」だと信じられ、消費されていた文壇の時代の、およそ最期のひとでもある。

また、途中で息継ぎもできないような、きわめて緊密な長編小説を書いた作家でもある。彼は小説家なのである。

若い頃は、大江健三郎みたいな文章を書いていた。それを気に病んでいたくらいには、聡明で繊細なこころの持ちぬしだった。

それから、ウイリアム・フォークナーを模倣した小説を書くようになった。

多重構造になっていて、他の作品が入り組みあっていて、時間軸が前後に揺れうごき、それは難解なところも多かったが、小説が小説じたいで読んでいることが面白いという稀有な作品、文学作品を書いた。ものすごく若かった筆者は、神さまを見るような思いで、その神さまを見ていた。圧倒、というなら、問答無用で圧倒されていた。理屈はない。

そのころには、彼はもはや、誰の真似でもない、比類のない文章と小説を書いていた。

文学作品、と筆者が言ったのは、文学がなんなのかを文学じたいが問うことを指す。そうでないからと言って、もちろんそこに優劣は、ぜんぜんない。彼は、熊野の野人のような無邪気さと、含羞に満ちた傍若無人さで、文学を信じていた。それだけのことだ。

しかし、こんにちで言う、そのキャラクターは時代にウケた。

彼はやがて、時代という気まぐれ者の、寵児になった。

小説家、評論家、音楽家、広義のアーティスト、その他、その時代特有のえたいのしれない様々な職業の者たちと対談したのが本書である。時代を「ニュー・アカ」と呼んだらしい。

それは高転びに転びやしないかと読者が案ずるくらいの人気であった。

とはいえ、彼に没落はなかった。

それより早く、肝臓癌がかれの命を奪ったからである。

享年46歳。

名前を書くのを忘れたが、中上健次のことだ。

神さまの名前である。