誰かあの本を知らないか

読むことについて書かれた作文ブログ。

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村上春樹『雨やどり』幻想の向こうの娼婦

思い出したように村上春樹の小説について。

とりあえず『回転木馬』を読み終えよう。

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前に何を書いたかまるで覚えていないので読み返したら、羞恥にまみれた。読み返すものではない。

さて、『雨やどり』である。

明治初年の本ばかり読んでいたから、なんだか未来の小説を読んでいるような気になる。今回はみじかく書く。

村上さんらしき「僕」が冒頭から「個人的な話」をしている。そして太字で「我々は多かれ少なかれみんなお金を払って女を買っているのだ」という。

しかし、高度な資本主義下では人間の性愛ですらも売買される、というなら何も不思議なはなしではない。「自然発火のごとくにセックスが生じるものだという考え」のほうが、ナイーブすぎて、よっぽど疑わしい。

そして話は、かつて少しだけ「村上さん」と仕事をしたことのある女性編集者の話になる。今回は彼女のはなし。とあるバーで雨やどりしているときに、「僕」が聞いた話だ。

それを要約すると、「我々は多かれ少なかれみんなお金を貰って男に買われているのだ」ということになる。

彼女が、不倫相手と別れたところから話は始まるが、彼女が直面したのは、それはかつて彼女が結んだ不倫関係に潜んでいて、顕在化しなかった性愛の実相である。

一人きりに耐えきれなくなった彼女が、男に買われるのは、人寂しいからだけではない。買うこと、売ることの関係性のなかにしか性愛が成立しないというその事実に直面したからだ。つぎつぎと関係する相手をかえてゆく娼婦に彼女はなる。

彼女の不倫相手である男性が投影していた、疑似的な、妻・恋人・愛人という関係は幻想である。吉本隆明ふうに言えば〈対幻想〉である。しかし、相互に思いあっていたわけではない。彼女が協力することで共有される幻想の関係である。しかし、会社の異動をめぐって、男性にとってだけ都合のいいそれに気づいた彼女は、共有をやめる。つまり、別れ、会社を辞める。

このとき、彼女は、男の幻想が支配する不倫という関係と、同じ幻想から成立している会社、いずれもやめる。降りた、のである。

男の幻想とは、彼らは、妻・恋人・愛人を「お金を払って」「買っているのだ」が、それを捨象して、見て見ぬふりをして、あるいは全くそれに気づかずに、まるで「自然発火」のように内面化していることを指す。よって、幻想の都合が悪くなれば、もとより幻想だから、任意に捨てることができる。

しかし、月並みに言えば、男を捨てて生きることを彼女は選べなかった。経済的な関係性のなかにしか成立しないその性愛を彼女は生きようとした結果、彼女は娼婦にならざるをえない。

彼女が、相手の男たちについて職業その他社会属性は覚えているものの、「内面的」にいかなる人物であったかを記憶していないのは、その幻想を共有することを拒んでいるためだとみてよい。

この「内面」の極致に、母なる幻想があるのは言うまでもないといったら、まるで上野千鶴子だな……。

しかし、聴き手である「僕」はこれに同意も、批判もできないことだ。

それをすると、男の語るフェミニズムという珍妙な立ち位置に落ち込んでしまう。

「山火事みたいに無料」だったと語る心事が那辺にあるのか筆者にはわかりかねるが、男は同意するかもしれないが、女性は必ずしも頷くものではないだろう。

しかも、彼女も、ほんとうの娼婦にはなれない。一回限りの関係に継続性はないし、「内面」を共有しない関係性は不可能である。批判することと、可能性は別のところにある。

そして、彼女にはボーイフレンドがおり、結婚も考えている。一時は失職していた彼女も、再び仕事をはじめ、またあの男の幻想が支配する社会に戻ったからだ。

それは幻想の雨をさけるための、ほんの仮の宿り。

それは「雨やどり」であったのだ。

 

内田義雄『戦争指揮官リンカーン』明治日本の幸運な時間

今のところ、明治10年あたりまでを書こうとしている。

近代文学はまだまだ現れない。明治14年が一応の目途になるのではないかと目算を立てているが、これまで役に立ったためしのない目算だ。あてには出来ない。

文学でなく、歴史で語ればいくらか見やすい。開国維新、版籍奉還廃藩置県征韓論から西南戦争まで。これで明治10年である。

激動、だなんて生ぬるい。ちょっと急ぎすぎである。それでも、世界史のなかで非常な幸運な時間に日本はめぐり合わせたから、それを生かした、ともいえる。

幸運な時間

明治から少し遡って、この「幸運な時間」を年号で辿ってみる。

1840年 アヘン戦争。1841年、天保の改革

1853年 ペリーの来航。1854年、英仏のクリミア戦争への介入。これが2年つづく。同年、日米和親条約

1858年 日米修好通商条約締結。前年1857年からヨーロッパは経済恐慌が起きている。

1861年 アメリ南北戦争。これが1865年まで続く。

1868年 明治維新

1870年 普仏戦争にてフランスは敗北、第三共和制宣言。

1871年 廃藩置県岩倉使節団ドイツ帝国成立。宰相ビスマルク

1873年 三帝同盟。ビスマルク外交。

1877年 西南戦争

列強が日本にかまっている暇がなかったわけだが、累卵之危というか、薄氷を履むような危うさのもと、なんとか近代化した。これが神風ふうな理解のされ方をするようになると、尊大な自尊心が肥大化してくる。日露戦勝あたりから明確になってくる。

それはさておき、来航して日本を開国せしめ、初めに不平等条約を結ばせたのはアメリカである。アメリカに、どれくらいの侵略の意図があったか筆者にはわからないことではある。けれども、この遅れてきた植民地主義国家がそのまま触手をのばしていれば、距離的に植民地にはならなかったろうが、港のひとつふたつ租借地にくらいはなっていたであろう。

南北戦争

独立戦争からはじめて年中戦争をしている人口国家が、アメリカという国のひとつの顔である。そして戦争だから人が死ぬ。戦死者数で見てみる。*1

独立戦争:4434人

米英戦争:2260人

メキシコ戦争:13283人

南北戦争:624511人

米西戦争:2446人

第一次世界大戦:116516人

第二次世界大戦:405399人

朝鮮戦争:36574人

ベトナム戦争:58209人

湾岸戦争:382人

人口比で言うと、第二次世界大戦における戦死者が0.3%であるのに対し、南北戦争は2%。50人に1人が死んでいる。

そして「南北」とは言うが、たとえばリンカーン夫人メアリーの兄弟は南軍に投じて戦士しているし、南部連合デーヴィス夫人の親族は北軍に属している。南軍のリー将軍のいとこサムエル・リーは北軍の海軍の指揮官。北軍ポーター提督の子息たちは、南軍の英雄とされたストーンウオール・ジャクソン将軍の配下。

骨肉相食むとは言うが、同じ時期の戊辰戦争西南戦争とは比べるべくもない。

こんにちのアメリカが、「分断」をヒステリックに恐れている背景には、南北戦争の経験と記憶がよみがえるからではあるまいか。ぎゃくに言えば、トランプはそれを逆手にとっているとも言えるが……。

電信の時代

今回とりあげた内田義雄『戦争指揮官リンカーン』は、南北戦争を「電信」の視点からとらえなおしたものである。

リンカーンの政権はサイモン・キャメロンを戦争長官に任じた。彼は旧知の仲であったトマス・スコットに鉄道と電信線の確保を要請した。スコットはペンシルヴァニア鉄道の副社長である。ワシントンに呼び出されたスコットは陸軍大佐および戦争省次官補に任命される。

そしてスコットは右腕とも呼ぶべき若い助手を連れていた。のちに「鉄鋼王」と称される若き日のアンドルー・カーネギーその人である。当時26歳で、ピッツバーグ地区の鉄道および電信管理を任されていたという。

そしてカーネギーはスコットの命で「戦争省電信室」を立ち上げる。ホワイトハウスの隣にあった戦争省の一室に電信室をもうけ、各前線の司令部と電信線で結ぶというものだったようだ。

この「戦争省電信室」にリンカーンは足しげく通うことになる。戦況を把握し、やがて戦争そのものの指揮を執り始める。本書タイトルの「戦争指揮官」はそういう意味である。

南北戦争の推移は、本書を読むか、ネットでしらべていただくとして、やがてこの田舎弁護士上がりの「戦争指揮官」はU・S・グラントを見出すに至る。南北拮抗、やや北軍不利の情勢をひっくり返したのがグラント将軍であることは良く知られている。

しかし面白いのは、たとえばミシシッピ川制圧作戦など重要な作戦遂行になると、ワシントンとグラント本営との通信がしばしば「不通」になることである。

電信室に情報として挙がってくる、いわばデータ、を分析して「指示」を出してくるリンカーンが、グラントにとってはだいぶ厄介だったようだ。前線と司令部の違い、現場と会議室の違い、なんていえば分かりやすいかもしれない。

モニターの前であたかも世界を把握しているかのように評論批評する先駆けでもあったわけだ、リンカーンは。

グラント大統領

なんだか駆け足で書いて、戦争の推移を書かないのは戦死者の数をえんえん書きたくないからだ。グラント将軍の成功は、南軍の死者による。リー将軍が名采配を振るえばそれだけ北軍が死ぬ。死屍累々。ほとんどドーソンの『蒙古史』同然である。

なお、救国の英雄となったグラントは、1868年、合衆国大統領にえらばれる。ちょうど明治維新と同じ年である。また1872年には横浜から出立した岩倉使節団アメリカにいたっており、大統領のグラントと対談している。

ところが大統領になったグラントは将軍としては優秀であったが、政治家ではなかったようだ。汚職事件および先住民政策で失敗し、2期まで務めるもののその後完全に失脚する。そして、雲隠れというか、ほとぼりをさますために1877年、世界周遊の旅に出る。この年、日本では西南戦争が起きている。

グラントの旅のその第一歩目はイギリス。ヴィクトリア女王のもてなしをウインザー城に受ける。それからヨーロッパ諸国をめぐり、エジプト、インド、タイ(当時はシャム)、中国をおとずれ、明治12年(1879)、日本に至る。

この来日が明治天皇にあたえた印象は相当強かったようだ。ドナルド・キーンの『明治天皇』二巻に詳しい。

汚職事件の醜聞はアメリカ国内に限られたもので、グラントは南北戦争の英雄としてだけ知られ、どこでも熱狂的な人気を誇ったそうだ。その人気は、黙阿弥が新富座で「後三年奥州軍記」で歌舞伎芝居にした。あろうことか、グラントを八幡太郎義家になずらえた演目である。また仮名垣魯文は『格蘭氏伝倭文賞』(ぐらんどしやまとぶんしょう)という伝記を書いたそうだ……。

のちに大洋をはさんで「最終戦争」にいたる日米両国の、これもまた「幸運な時間」であったと言えそうだ。

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*1:以下、内田義雄『戦争指揮官リンカーン』文春新書参考

栗本鋤雲『曉窻追錄』ナポレオンコード②

承前。今回は、司馬遼太郎の『歳月』を思い出していただけると少しは分かりやすい。前回は大河ドラマ「青天を衝け」だと言った。ドラマでも小説でもないのが歴史というものだ。騙すつもりは毛頭ない。ただ蕭然としているだけだ。

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フランスへの傾倒

明治初年にあったフランスへの傾倒は「仏国熱」と回顧されたようだ。

筆頭は西園寺公望だろう。

明治34年から『毎日新聞』に68回にわたって連載された「當世人物評」は石川半山の手になるものだが、これは西園寺公の人物評論である。三宅雪嶺徳富蘇峰など「人物評論」として流行したものの中では、さいごのほうになる。内容として、その真偽のほどは筆者には判断しかねるが、維新から日清戦争あたりまでを、西園寺公望を通して回顧した読み物となっている。風説も含めて、当時だいたいどのように見られていたか、参考になるかもしれない。

以下、石川半山「當世人物評」より引用する。*1

徳川幕府の末造(ばつぞう)から、明治維新の新天地へかけて、最も多く日本に歓迎された者は仏国の文明で有る

△仏国の公使が巧みに徳川幕府に取り入ッた者だから、幕府の末造(ばつぞう)から明治の新政府に至る迄、仏国の文物は、大いに歓迎された傾きが有ッた

そして幕末の兵制改革に触れて、浅野一学、岡田佐一郎、成島甲子太郎、万年真太郎。

大鳥圭介、荒井郁之介、沼田守一、益田孝、矢吹秀一、の名を挙げている。

△何にしろ徳川家の民部公子を渋沢栄一*2などが扈従(こじゅう)して仏国に留学させて居たと云う次第だから、其頃の仏国の勢力が日本に及ぼした感化は一ト通りでない

山縣有朋が新政府の兵制を創建するに当りて、其の模範を仏国に取らんが為めに、仏国へ出かけたのも、矢張り其当時の仏国熱に感染して居た結果で有る

「民部公子」は前回挙げた徳川昭武のこと。よってここはパリ万博使節団のことを言っている。また、明治34年には、フランスへの傾倒は、「仏国熱に感染」とみられていたことがわかる。

△法律の如きも河野敏鎌*3が大将となッて、明治5年に洋行した時、鶴田鵠川路利良岸良兼養井上毅名村泰蔵益田克徳の諸秀才を引率して、仏国に赴き最も熱心に仏国の法律を研究して、之を日本に移植したので有る

ボアソナードを日本政府の顧問に傭聘したのは、此の河野が洋行中に取り決めた事で、即ち其一行中の名村泰蔵が、ボアソナードを連れて帰朝した様に覚えて居る

人名ばかりで知らない人には迷惑だろうが、少し説明する。

河野敏鎌*4が大将となッて、明治5年に洋行」とは、もともと司法卿江藤新平が率いる予定であったものを、公務の都合で江藤が取りやめたため、河野が率いることになったものである。

ちなみに、同じ船に、東本願寺の現如上人一行も同船しており、成島柳北随行し、渡仏している。詳細は『航西日乗』という紀行文に柳北が書き残している。

この一行、呉越同舟といっていい。例えば川路利良はもと薩摩藩士。のちに警視庁を創設し、今でいう警視総監に就任した。井上毅肥前熊本。川路と井上は司法省の役人である。そして再三書いている柳北は旧幕臣で「無用の人」という取り合わせである。

そのうえ、一行がパリに到着した明治5年、岩倉使節団もパリに至っている。

この時期、日本の政府要人の半ば、知識人、はたまた宗教人までがパリにいたことになる。

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さて、「名村泰蔵が、ボアソナードを連れて帰朝した」の記述は錯綜がある。

明治5年の岩倉使節団には佐々木高行随行していた。佐々木は司法大輔である。佐々木は河野一行とパリで会い、江藤新平が法律に通暁した外国人教師を切望していることを知る。そこで、フランス駐在公使の鮫島尚信が交渉していたボアソナード来日の件を更にすすめ、ボアソナード来日が決まる。名村泰蔵にはそれを決める職権がない。

ただ、名村泰蔵と井上毅は在仏9か月のあいだ、ボアソナードからフランス法の講義を受けたし、来日に尽力したことは間違いない。

ギュスターブ・ボアソナードは当時のパリ法科大学助教授である。学識も深く、教授職を望んでいたが、私生児、という生まれゆえそれを果たせずにいた。そればかりではあるまいが、鮫島の懇望と、極東アジア近代法をもたらすという使命に燃え、来日を決めた。

なお、はじめ3年の契約であったが、明治6年に来日してから、明治28年まで明治の日本にとどまりつづけ、諸法典編纂および法教育に尽力することになる。

ボアソナード民法草案

明治3年に戻る。

不平等条約改正が明治政府の悲願であったことは何度も書いたが、そのために新しい民法典制定は不可欠で、この年はやくも太政官制度局に民法編纂会議が設置された。中心人物は江藤新平で、訳官・箕作麟祥の訳出するフランス民法典(ナポレオンコード)の逐条審議、という形で進められた。

江藤新平の性格もさることながら、政府にとっても喫緊の課題であったことは察せられる。

とはいえ、江藤の果断にして急進、拙速を厭わない取り組み方は、逸話を残した。

曰く、「誤訳を恐れず」「フランス民法を訳し、フランス民法という文字を日本民法と書きかえればよい」といったものである。

それに対し、箕作麟祥は学者としての矜持から正確さを求め、それが果たせないことを恥じ、フランス留学を請うたらしい。それで江藤は、河野敏鎌を通して法律の教師を切望したわけだ。江藤自らや麟祥が渡仏していたのでは時間がかかりすぎるということだろう。

このへんのいきさつを題材に、司馬遼太郎『歳月』は書かれている。己の才覚と野望を、この世に果たしたいという、狂おしいほどの願いをもった人物造形で描かれた江藤新平だが、実際のところ、実務は箕作麟祥のような江戸幕府に仕えた優秀なテクノクラートや、お雇い外国人によって大いに助けられたものだ。才覚と野心だけではどうしようもない。

結局、江藤新平は明治7年、佐賀の乱に刑死するが、江藤のあとをおって司法卿に就いた大木喬任によって、その後も編纂事業は続けられる。しかし、部分的な草案を作成することはできても、体系化された法案を作ることはできなかったようだ。

そこで、明治13年大木は元老院内に民法編纂局を設け自らその総裁に着任し、本格的な民法典編纂に邁進する。このとき、ボアソナード民法典起草のために起用され大いに力をふるう。そして明治23年、俗に「ボアソナード民法草案」(以下、旧民法とする。明治31年から実施されたものを「明治民法」と呼ぶのに対する)と呼ばれる民法原案が確定公布された。

民法典論争

公布された旧民法は、「明治26年1月1日ヨリ施行スベキ」とされ、公布から3年の猶予があった。そこでこの旧民法の可否をめぐって「民法典論争」とよばれる論争が巻き起こった。

法学会の論争から政争に拡大し、筆者の力ではこれを詳らかに述べることはできないが、施行断行派と延期派とに分かれた論争は、明治25年の第三会議で明治29年までの施行延期がきまるに及んで、いったんは公布された民法の、事実上の廃棄が決められた。

争点は多岐にわたるが、フランス大革命の精神にもとづく、自由主義・平等主義が、日本の風土にそぐわない、というのが主だった意見のようだ。

また、ナポレオンコード、フランス民法典がそもそも個人の権利を主体として法が展開するのに対し、「祖廟」=「イエ」を単位にした家父長制を以てその近代国家を築きつつあった日本にあって、この旧民法ボアソナード民法が受け入れられる可能性は殆どないだろう。そして、「外国人」が起草にたずさわった点も、国内にナショナリスティックな反応を引き起こした。

このあたりの反応は、どこかの憲法をめぐる脊髄反射に似ている。

『法学新報』に穂積八束の論文が出るにおよんで、施行延期、事実上の廃棄は決定的となる。曰く「民法出デテ忠孝滅ブ」と。

国が亡ぶと言って民衆を扇動するのは昔からある手口だ。何度騙されても、何度でも騙される。そしてその扇動者は国を守り、騙された民衆がかわりに滅びるのである。

ボアソナードの帰国

渡仏した栗本鋤雲がもたらしたフランス民法典の夢はここに潰えた。鋤雲はまだ存命であったから、これを見届けたはずだ。

一方、明治28年、横浜から出向した船にはボアソナードが乗っていた。そこに充足があったのか、失意があったのか、今となっては知りようもないことだ。

同年、日清戦争終結。三国干渉。近代日本国家の自意識は肥大化をつづける。

翌29年。新民法の起草。31年公布、同年施行。

個人の権利を守り、自由と平等を理念にもつ国家の創造は、露と消えた。

しかし、鋤雲は『曉窻追錄』にこうも書いている。

和春曰、新定律書、能く周悉遺す所無く、拠て以て治国の要具とす。是れ、西洋各国の共に同き所なり。然れ共、是を其儘東洋諸州に行い妨なしと為す可らず。試に其一を挙て是を云わば、左手を挙て天に誓うの如き、凡そ洋教を奉ずる人皆誠慤死に至り、之を守り、敢て渝る者無し。然るに印度人の如きは、必らず一人の嘱を受て、保証人となり、天に誓い偽るなしと云う。其天を偽り誓を忽にする、絶て西人の無き所なれば「ナポレオン」の智と雖ども、此に至て殆ど周きこと能わず。是れ「コード」の書其儘東洋に行われ難き一證なりと。訳成り刊行するの日、読者夫れ三思せよ*5

これを慧眼とみるか、「東洋」日本への失望とみるか、政治家としての現実主義とみるか。

読者夫れ三思せよ。

栗本鋤雲の没年は明治30年になる。

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※以下、参考書。

 

 

 

 

 

 

*1:筑摩書房『明治文學全集92』より引用。筆責で「ヿ」は「こと」に改め、歴史的仮名遣いを直し、濁点、「、」「。」を適宜補った。返り点は読み下した。また異体字は現在の標準漢字に直した。

*2:以下、太字は本文傍点

*3:太字は本文傍点

*4:太字は本文傍点

*5:筑摩書房『明治文學全集4』による。筆責で「」は「こと」に改め、歴史的仮名遣いを改め、濁点、「、」「。」を適宜補った。返り点は読み下した。また異体字は現在の標準漢字に直した。

栗本鋤雲『曉窻追錄』ナポレオンコード

大河ドラマ「青天を衝け」に出てくるらしい。栗本鋤雲である。

もちろん、と言っては何だが、観ていない。観ていないが、見聞は読者のほうが広いだろうから少し安心して書く。

先だって栗本鋤雲の『鉛筆紀聞』を読んだ。ついでに『曉窻追錄』*1を読んでいたら、「ナポレオンコード」所謂「ナポレオン法典」「ナポレオン民法典」に関する記述があった。今回はそんな話になる。

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パリ万博使節

慶応3年(1867)、将軍徳川慶喜の命で、弟昭武が将軍名代としてパリに派遣された。

パリ万博使節団である。

このとき鋤雲は随行しており、同年8月からおよそ9か月間、パリに滞在した。慶応4年3月、維新を知り急遽帰国。5月には江戸に入るが、そのまま致仕し、小石川大塚に隠棲した。

『曉窻追錄』はこのパリ滞在中の見聞録である。

同時期のパリ見聞録としては、成島柳北の『航西日乗』がある。しかし、同じ幕臣とはいえ、柳北がパリに至った時、すでに普仏戦争後の明治5年(1872)、第三共和政に移行している。鋤雲の見たパリは、第二帝政華やかなりし頃のパリである。そして、それはルイ=ナポレオンナポレオン三世が「帝国、それは平和だ」と称えた安寧と繁栄を具現化した一大イベント、パリ万国博覧会の「巴里」であった。

そして、というか、しかし、鋤雲は日仏和親の外交任務を携えていた。よって、「無用の人」を決め込んだ柳北と異なり、鋤雲はその見聞が幕政に役立つことを考え、記している。そのあいだに、幕府が消えてなくなるなんて誰が知るであろう。

ビクトル・ユゴーカール・マルクスによって稀代のペテン師にされたルイ・ナポレオンだが、鹿島茂によればフランスが近代国家として大いに栄えたのは第二帝政だそうだ。イギリスが女王で栄えるように、フランスは皇帝で栄えるのかもしれない。

そしてその栄えあるナポレオン帝国の近代民法を、若い日本は採用しようとしていた。

ナポレオンコードと日本の司法

片言以て訟を断む可し、とは必ず子路の賢にして然る後得べきことにて、庸才凡智の敢て跂及する所に非らず。況や情なき者、其辞を尽すを得ず。必ずや訟無らしめん乎の場合に至りては、真に空前前後、孔子の聖の外、迚も夢見すること能わずと思ひしに、今法帝「ナポレオン」の政令は殆んど夫に類することあり。実に驚嘆欽羨に堪えざるなり。*2

孔子子路を評して言ったとされる、『論語』のためし*3を引いて、本書は始まる。

近代法を喩えるのに孔子を以てするのは不思議な気もするが、法の正義を、儒教的な道徳・倫理としてみるのは鋤雲ひとりのものではない。視野をすこし広く持つと、明治の自由民権運動や労働運動にまで見られる思考の〈わく〉である。

「実に驚嘆欽羨に堪え」ない、というのは、幕末当時の司法制度との差に関しての感想である。じっさいの民事裁判と判決の例を挙げて、鋤雲はこう記す。

是れ特に声と色とを大にして強いて人を厭服すると、遷延濡滞久して決せずとの弊なきのみならず、殆んど情なき者、其辞を尽すを不得の場合に、庶希すと謂う可し。然して訟庭四面鉄格子の外、路人交戚を論ぜず、聴者堵の如く、頭領の裁許公平にして人意に適すれば皆手を拍ち喝采し、即晩新聞紙に上せて都府に充布し、不公平なるも亦然せり。

全文は最後に引き写したから参考にしていただくとして、「頭領」=裁判官が、訴える者と訴えられる者との意見を聴収し、法律に則って裁き、その結果は公平も不公平も新聞に公開される、ということに鋤雲は驚いている。また、

訴訟の媒をなす者あり。

として、訴訟代理人制度の優秀さを指摘している。

日本では、*4江戸から明治初めまで、1742年に定められた『公事方御定書』などにより、後でいう民事訴訟は裁かれていた。一般庶民に、近代的な諸権利はそもそもないから当然ではあるが、諸法度のたぐいは開示すらされていなかった。

奉行所というものは、裁判所と検察を兼ね、訴訟代理人弁護士の代わりに、非公式の「公事師」に付き添われて、お白州で一方的に申し渡しを受けた。果たしてこれが裁判なのか、こんにちからすれば判断しかねる。いっぽう、「ナポレオンコード」では、

我国公事師なる者に似て、大に異なり、能く律書を暗じ、正直にして人情に通ずる者を選み、官より俸金を給して、凡そ鄙野の人、言語に訥なる者必ず此媒者に謀り、然後、出訴せしむ。媒者能く其情実を悉して訟う可きの理あれば助て訟えしめ、其理なければ諭して止めしむ。

今でいう国選弁護人制度である。そして、その裁判の簡易なことも挙げられている。

曲に其情実を陳ずる殆んど平常談話の如し。頭領唯々として聞き、史官其側に在りて書記し、畢れば罷め出よと言うのみ。訟を造す者、訟せられる者、絶て対決論難にことなし。

たとえば、江戸時代、奉行所からの召喚をうければ、当事者は公事宿に泊まり、呼び出しを待ち続けるしかなかった。交通費、宿泊費、そして公事師を頼むのであればその費用はすべて持ち出しで、それが一年かかるかそれ以上かかるか、いずれにしても待つことしかできなかった。そのまま破産する者、自殺する者も多かった。

なんだかカフカの『城』みたいな不条理世界である。

付け加えれば、慣習法・類推解釈・事後法・不定期刑は禁止されておらず、罪刑法定主義という概念そのものがなかった。

この「ナポレオンコード」の優秀さを悟った鋤雲は、「訳司をして速に翻訳せしめんことを欲」したが、

師を得て問質するに非ざれば、到底明暢に至らざる処あり。仍て岡士「フロリヘラルト」学士和春に託し、兒貞を扶け、功を竣して、以て我国に益せんことを約したり。

法律文書であるからだしぬけには読めない。そこで「岡士」=日本総領事であったフロリ・ヘラルド(フリュリ・エラール)に助けを請うた。徳川昭武一行在仏の便宜を図った元銀行家である。

ナポレオン法典を翻訳することがどれくらい困難であったかというと、箕作麟祥でも歯が立たなかったらしいから、推して知るべきであろう。なお、麟祥もパリ万博使節団に随行している。

幕臣たちのリベラルさ

さて、ここで、すでに隠棲していた鋤雲がナポレオン法典を『曉窻追錄』記録した理由をすこし述べてみる。往事を懐かしんでのことでないのは確かだろう。結論から先にいうと、それは、ナポレオン法典にみられる〈リベラルさ〉が彼をして書かしめたのではないか。自由と平等によって国家が作られることへの期待と言ってもいい。よって、これはひとつの言論活動であった。

幕府のフランス派の官僚たちは維新後さまざまな道を歩んだ。致士した者もあれば、新政府に再仕官した者もある。そのなかで、鋤雲は在野を選んだ。筆を通して、まだ見ぬ日本国家を、ナポレオン法典の向こうに見ている。ただの見聞録ではない。

〈リベラルさ〉は、単に幕府とフランスが政治的に近い位置にあったということだけではなく、ある種の思想として受け止められた結果、見出されたものだろう。それを鋤雲は『論語』になずらえて説いているとは先に述べたとおり。

そして、薩長による田舎者の政権ができるに至って、江戸の庶民文化のなかに息づいていた、これもまたある種の〈リベラルさ〉が呼応した。典型例として何度も言及している成島柳北がいる。また永井荷風が柳北を欽慕した理由もそこにあり、藤村も『夜明け前』で書いたのは、ありえたかもしれない、その近代日本である。

ただ、リベラルという政治思想ではなかった。あくまで〈リベラルさ〉である。そこに思想にならなかった限界があり、歴史的には、フランス法の受容と破棄、ボアソナード民法をめぐる民法典論争において、ひとつのピークと終焉を迎える。

ちょっと長くなったので分割する。つづきは以下。

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さいごに、『曉窻追錄』のなかで今回述べた部分に該当する全文を載せる。青空文庫にでも載っているかと思ったらなかったからだ。ただし、例によって、筆責で「」は「こと」に改め、歴史的仮名遣いを直し、濁点、「、」「。」を適宜補った。返り点は読み下した。また異体字は現在の標準漢字に直した。筆者の作文よりは価値があるかと思う。

 

暁窓追録

日本 栗本鯤化鵬 編

片言以て訟を断む可し、とは必ず子路の賢にして然る後得べきことにて、庸才凡智の敢て跂及する所に非らず。況や情なき者、其辞を尽すを得ず。必ずや訟無らしめん乎の場合に至りては、真に空前前後、孔子の聖の外、迚も夢見すること能わずと思ひしに、今法帝「ナポレオン」の政令は殆んど夫に類することあり。実に驚嘆欽羨に堪えざるなり。然れども静に其跡に就て其事を考うれば決して為し難きことに非ず。今其概略を此に言ん。法国に新定律書あり。「ナポレオンコード」と名く。其書、一冊五類、毎類紙端の色を分ち検閲に便す。其五類始の一項は太子の定め方、特に己の子のみに限らず、一族の賢を選び、臣民の意に叶い、治国の材に堪たるを定むるを始として、遂に下々婚姻嫁娶の掟並に一家の主たる者歳二十に至らざれば独立すること能わず、必らず親戚長者の代り管する者を待て、金銀仮借は勿論、百事の證記を為すに非ざれば、券書取り替せ出来せず。若し犯す者は、双方の曲となり、何等の罰を得るの類を詳記し、第二項は、陸軍海軍上は将校より下も兵卒に至る迄、都で武官の規則を記し、第三項は諸税額を定め、田畝家屋の売買、貨物の仮借、質貸の掟を述べ、第四項は文官の規則より下も市中取締り、市中邏官「ポリス」の職掌に就て、行儀作法より取扱、万端の心得を記し、第五項は僧官の職務行跡よりして宗旨は国人各々、其尊奉する所に任せて、官より敢て是を好悪せずと雖ども、其宗旨に就て政事に妨礙することを禁絶する等の類を挙げ、毫釐悉遺す所なく有らざる処なし。且其軽重賞罰とも確然と世間に公布し、夫、人皆知り、姦を容る可きの地なし。故に、吏となりて上に在り、令を奉ずる者、民となりて下にあり。令を受る者共に此律に因りて断定し、断定せられ更に一語不服の者なし。遂に知愚不肖をして自ら省み自ら屈して健訟強訴をなさざらしむるに至れり。孛漏生伊太利荷蘭是班牙*5等、傍辺の数大国此書に頼り、各其自国の律書を改訂し、遂に英国の律学者も律書は「ナポレオンコード」に依り定めざるを得ずと云うに至れり。

余既に此説を聞き、又其調徴を見て、其書の政治に要なるを知り、訳司をして速に翻訳せしめんことを欲せり。然るに其書一種の語辞、所謂官府文字の類にて、師を得て問質するに非ざれば、到底明暢に至らざる処あり。仍て岡士「フロリヘラルト」学士和春に託し、兒貞を扶け、功を竣して、以て我国に益せんことを約したり。同時佐賀藩の佐野栄なる者彼地に在りて邂逅し、話次其事に及ぶ。彼れ、早く此書の善を知り、又、其訳の難きを知り、大に予が用心を讃じ、成功の日一部を繕写して其老侯に呈ぜんことを跂望せり。

商估、瑞穂卯三郎、吉田次郎の両人、博覧会社*6のことに携わり、久しく巴里に留れり。一日貨品授受の齟齬にて政聴に呼び出さるることあり。聴訟の頭領官、縫衣峨冠、机を面にして榻に踞し、両人を延て其正面に立しめ、徐に問て曰、某街の市人某なる者、何々の事件に因り、日本估客と曲直を弁ずることありと訴えり。果して其事ありや。両人答て曰、あり。頭領頷て曰、果して其事あらば請う、左手を挙げ、天に誓て訴る無く隠す無く、其実を言え。両人其言の如くし、曲に其情実を陳ずる殆んど平常談話の如し。頭領唯々として聞き、史官其側に在りて書記し、畢れば罷め出よと言うのみ。訟を造す者、訟せられる者、絶て対決論難にことなし。三五日を経て、再び双方を呼び出し、前日の如く延て前に至らしめ、頭領断じて曰、市人某前日の訟其言う処云々。日本估人云う処云々。我今彼此の詞に拠り、傍ら保証人の言に照し、其情実を繹ね定めて「ナポレオンコード」何條の律に従い、其曲直を判じて某々の科に処せりと。唯此一語、訟者も訟せらるる者も、黙して退くのみなりと。是れ特に声と色とを大にして強いて人を厭服すると、遷延濡滞久して決せずとの弊なきのみならず、殆んど情なき者、其辞を尽すを不得の場合に、庶希すと謂う可し。然して訟庭四面鉄格子の外、路人交戚を論ぜず、聴者堵の如く、頭領の裁許公平にして人意に適すれば皆手を拍ち喝采し、即晩新聞紙に上せて都府に充布し、不公平なるも亦然せり。

訴訟の媒をなす者あり。我国公事師なる者に似て、大に異なり、能く律書を暗じ、正直にして人情に通ずる者を選み、官より俸金を給して、凡そ鄙野の人、言語に訥なる者必ず此媒者に謀り、然後、出訴せしむ。媒者能く其情実を悉して訟う可きの理あれば助て訟えしめ、其理なければ諭して止めしむ。訟も訟えざるも共に毫も酬労謝功の費なし。若し密に贈るも必ず堅く拒み、受けず。其厳なる何をもって能く然るや。蓋し、媒者屡人を扶けて出訴し、常に至正至公にして、衆望是に帰すれば追々階級進み、遂に聴訟の大頭領に至る前途期する所遠大なり。宜なる乎。能く身を護して謹厳なるや。

 

 

 

 

 

 

*1:ぎょうそうついろく『明治文學全集4』筑摩書房『匏菴十種』所載

*2:筑摩書房『明治文學全集4』による。筆責で「」は「こと」に改め、歴史的仮名遣いを改め、濁点、「、」「。」を適宜補った。返り点は読み下した。また異体字は現在の標準漢字に直した。

*3:論語』巻第六顔淵第十二「子曰、片言可以折獄、其由也與、子路無宿諾」「ほんの一言聞いただけで訴訟を判決できるのは、まあ由(子路)だろうね。」子路はひきうけたことにぐずぐずしたことはなかった。「子曰、聴訟吾猶人也、必也使無訟乎」「訴訟を聞くことではわたしもほかの人と同じだ。強いて言うなら、それよりも訴訟をなくさせることだろう」岩波文庫論語』より引用。

*4:以下、法律をめぐる記述は小松良則『汝人を害することなかれ 明治政府とボアソナード』株式会社フクイン(2018.4.15)を参考にしている。

*5:プロイセン・イタリア・オランダ・スペイン

*6:パリ万博には江戸市中の商人も参加していた。詳しくは高橋邦太郎『花のパリへ少年使節』。

大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた』遅れたファン・レター

たとえば、芥川龍之介太宰治三島由紀夫と並べてみる。

近代文学史は言ってみれば、「私」をめぐる冒険、である。

その昔、柄谷行人が「他者」と呼んだものを、筆者の知能で正確に理解することは難しいが、「私」から外へ出ていった先で出会うもの、なら何となく理解できる。

エーリヒ・フロムの『自由からの逃走』は読んでもわかないが、「『私』からの逃走」なら首肯できる。「自由」が桎梏であるように、「私」にとって「私」は、手かせ首かせであり、躓きの石である。

そんなことを転びながら、迷いながら、おろおろと毎日書いている。

ポストモダンがなんなのか、これまた筆者にはまるで分からないが、かつて「私」は超克された。少なくともそういうことになった。同様に、国家や民族、宗教も、幻想にすぎないとして、ことごとく克服された。残るは資本主義だけ、ということになったあたりから、技術革新が起き、近代はB面に入った。「近代のやり直し」とは大塚英志がひところ言っていた。B面と言って若い人に理解されないなら、座布団をうらかえして座りなおした、と思ってください。……余計、分からないか。

 

この作文にはしばしば大塚英志を引用している。真似している。なぞっている。

一問一答のわかりやすい問題解決は留飲を下げやすいが、歴史にならない。この場合の歴史は、つながりとその広がり、それがじぶんとどう結びついて結びつかなくて、途方に暮れながら、自身の居場所を定めてゆく営みである。これはQ&Aのただの累積ではなしえない。

その歴史すら人を偽ると大塚英志はしばしば言う。だから、やり方は教えるから、あとは自分でやれ、口先だけでなく、個々人がじぶんの責任でやれ、という。だから、問いはあるが、答えは書いていない。

そう筆者は誤読している。

大塚英志は、読者に誤読させるくらいには優れた、魅力的な、意地悪な、作家なのである。

文章のなかの大塚英志は、基本的に怒っている。苛立っている。そして憂うるなんて生ぬるいくらい心配している。際どい皮肉を言う。当てこすりも言う。他人が氏に対し何かを決め込もうとすると暴れる。野人のような含羞をもつには理知と知識がありすぎる。文脈や紙背に、その含羞はにじまない。そういうポーズを何より嫌う。

いっぽうで、雑誌の編集後記ごとき場所に、一言にして人を救うようなことを書いたりする。あとから見返してみると、そんなことはどこにも書いていないのだが、そのとき、そこには確かに書いてあったはずなのだ。

もちろん、筆者の誤読である。

大塚英志は、筆者のような愚か者にもなんとか伝わるよう、噛んで含めるように説明する。さきに作家、と書いたが、教師でもあるらしい。じっさい大学で教えていたこともある。その後の顛末は知らないが、教師としては恐ろしく親切な教師である。見ず知らずのアカの他人にまで教えようとする。

大昔になるが、若き日の吉本隆明は、敗戦直後、愛読していた小林秀雄が黙して語らなかったことに絶望したらしい。以降、吉本隆明はともかくも発言することを心掛けたという。

同じようなことは、柄谷行人にも当てはまって、いつからか、柄谷行人は読者が願うことを語らなくなった。また、名前はあげないが、同じころから、それまで愛読していた作者たちも転向していった。それが処世なのか、思想の結果なのかは、わからない。わからないのが読者だからだ。

しかし、大塚英志はずっと書いている。おかげで、ぎりぎりのところで読者はその声を聞くことができる。

もちろん、手管はある。たとえばタイトルで、今回とりあげた『日本がバカだから戦争に負けた』は目を引くタイトルだが、副題をみると「角川書店と教養の運命」とあり、こっちがほんとうの本題だ。いつの戦争と読むかは読者次第だ。

角川書店の歴史をたどりながら、角川源義に言及しているのは貴重なのではないか。折口信夫の弟子で、角川書店社長。前回紹介した太宰治の『女生徒』もそうだが、純文学はおろか、古典や文学研究論文集までかつての角川書店は発行していた。また、稀覯本の収集にも努め、たしか横山重の赤木文庫が散逸を免れたのは、まとめて買い取った角川源義が慶応大学斯道文庫に寄贈したからではなかったか。なお、それは『室町時代物語集成』として角川書店から刊行されたはずだ。

教養=人文知が、インターネットなどの工学技術のなかで衰亡してゆくことへの警鐘というのが一応の筋で、その制作側から見た推移、歴史を記録している。後代、インターネット技術の進展に関する、神話とも伝説ともつかない歴史が生まれたとき、そうでもないことを示すための資料だろう。大塚英志は研究者、史家でもある。

また、社会を構成する基盤になるのは、制度でも工学システムでもなく、「教養」と呼ぶしかない共有言語であるとし、「言語」の問題として見ているのが傑出した着眼点だろう。柳田國男をひきあいに出して、かつての「教養」に含まれていた公共性を取り出しうるか、という問いがなされている。

 

ちなみに本書刊行は2018年である。

わざわざ4年前の著作を持ってきたのは、書かれている段階から現在、その分状況が悪化しているからだ。しかも加速度的に。

筆者が「私」と書いているのは、大塚英志の驥尾に付したともいうし、真似とも言う。しかし、問題は「私」で、その「冒険」は、まあまあ終焉を迎えている。喜劇的なエピローグ。そんなことを考えて、改めて本書を思い出して見直したら、書いてあるとおりに悪化していた。呆れるか、慧眼に恐れ入るか。

とはいえ、呆れても、大塚英志の慧眼を賛美してもしかたないので、やむなくファン・レターにした。

4年遅れたファン・レターである。

 

 

 

太宰治『燈籠』女が独りで語ること

前回、うっかり太宰治と書いた。書いた手前そのままにもできないから、今回は太宰治

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今回取り上げた『燈籠』は、角川文庫の『女生徒』に入ってる。
この一冊は、編集方針がはっきりしていて面白い。タイトルの『女生徒』含め〆て14編、すべて女性の告白体形式を採用した作品だけを載せている。

『燈籠』成立の時代

『燈籠』の発表は昭和12年の秋、らしい。不確かな言いぶりだが、文学年表には載っていなかったので解説に従う。

同年、盧溝橋事件から日中戦争開始。
山本有三路傍の石志賀直哉『暗夜行路』永井荷風『墨東綺譚』川端康成『雪国』井伏鱒二『ジョン萬次郎漂流記』が同じ年に刊行されている。こんにち知られる「文学」は15年戦争下に大いに生まれたとはすでに述べた通り。

本作発表時、太宰治はかぞえで29歳。作品は彼の青春期の終わりに書かれた。このあたりの太宰治をめぐる略歴と文壇の逸話は、よく知られたことなので省く。生活と作品をごっちゃに読ませるところが、太宰治には、ある。

『燈籠』あらすじ

「ことし二十四にな」る娘が「水野さん」という男と知り合う。「みなしご」であるという男の「不自由」に同情した娘は、「海へ泳ぎ」にゆくという男のために「男の海水着」を盗む。「交番」にしょっぴかれた娘は、じぶんの悪くないことを述べる。留置所に一晩留められ、翌日父に伴われて娘は家に帰る。男からは別れを告げる手紙がくる。娘は、父の交換した部屋の「電球」を眺めながら、自分たちの「幸せ」はこんなものだ思うが思いなおし、「私たち親子は、美しいのだ」と、言う。

本作は独白形式、女性の独白形式で書かれている。
内面の独白は、外部性という出来事から薄皮一枚へだてた処に成立する。
よって、この「薄皮」を取り去って、あらすじを出来事だけで整理し、一行に直すと、

男のために盗みを働いて捨てられた貧しい娘の独白。

いささか酷な気もするが、外部性、つまり客観的に確認できる出来事はこれしか残らない。
そこで独白が生まれる。本当は違うのだと。
しかし、それは「言えば言うほど」誰も「信じて呉れな」いものになる。

『燈籠』を読む

盗みをいたしました。それにちがいはございませぬ。いいことをしたとは思いませぬ。けれども、……いいえ、はじめから申しあげます。私は、神様にむかって申しあげるのだ。私は、人を頼らない。私の話を信じられる人は、信じるがいい。*1

なんだか女性週刊誌みたいだ。ところが、「私」が読者に独白する形式は、週刊誌の読者欄や独白記事をへて、インターネットの掲示板、SNSにまでいたっている。語るべき内実がなくとも、「私」は独白するのである。独白という形式が内実を満たすことを強いる、と言ってもいい。
内実のないそれを娘は

私は、ひとめで人を好きになってしまうたちの女でございます。

と言っている。からっぽの「私」を、ふとした感情が満たそうとするのである。理由はないし、先の当てもない。
内実を満たす何物をも持たないから、「眼医者」の「待合室」でであった男の「みなし児」だという言葉に対し、娘自身がじぶんの内面を満たすようなやりかたで、男の内面も満たそうとする。つまり「しんみになって」しまう。
それを娘は「眼帯の魔法」だという。

外界のものがすべて、遠いお伽噺の国の中に在るように思われ、水野さんのお顔が、あんなにこの世のものならず美しく貴く感じられたのも、きっと、あの、私の眼帯の魔法が手伝っていたと存じます。

ポイントは両目で見ていない、ということだろう。よりにもよって、開いた方の目は、「お伽噺の国」を見ている……。
「交番」に連れていかれ娘は、ながながと、滔々と弁明をする。9頁しかない短編の2頁にわたるんだから、長い弁明だ。しかし、この自己弁護は、

私は、強盗にだって同情できるんだ。

の一行に尽きる。ここを見誤ると、「万引にも三分の理、変質の左翼少女滔々と美辞麗句」という「夕刊」の「見出し」同然の見方に陥るだろう。
ここにあるのは他人へのいたわりでもなければ、「正直」なにんげんの弱さでもない。倫理的に苦しんでいるわけではないし、と言って「強盗にだって同情できる」という思想を獲得しているわけでもない。

おまわりさんは、蒼い顔をして、じっと私を見つめていました。私は、ふっとそのおまわりさんを好きに思いました。

どうやら弁明ですらないらしい。もちろん、倫理だの思想だのがあればいいわけではない。倫理と思想に凝り固まった碌でもない男はたくさんいる。ちょうどここに「水野さん」の手紙がある。

ただ、さき子さんには、教育が足りない。(中略)環境において正しくないところがあります。僕はそこの個所を直してやろうと努力して来たのであるが、やはり絶対のものがあります。人間は、学問がなければいけません。

筆者、少し乱暴ないいかたをする。
なんて嫌な男だ。
しかも、

海浜にて人間の向上心の必要について、ながいこと論じ合った。僕たちは、いまに偉くなるだろう。

とご丁寧に付け加え、「その罪を憎みて」と結ぶ手紙を送る。そのうえ、

(読後かならず焼却のこと。封筒もともに焼却して下さい。必ず)

と嗤うべき卑劣な追伸まで付いている。まさか読者諸氏、この男に内実があるとは言うまい。しかし、娘は

私は、水野さんが、もともと、お金持の育ちだったことを忘れていました。

とだけ言う。かなしみをひめている、なんて言う莫れ。降って湧いたように「私」を満たしていただけのものだから、「忘れ」るのである。「私」には「忘れず」覚えているほどの何物もないのである。
つぎつぎと外から何かが訪れて、「私」を通り過ぎてゆくのである。それを「私」は「私」だと思っている。冒頭で娘は、「言えば言うほど」誰も「信じて呉れな」いものだと言ったが、そもそも「私」自身が、「忘れ」てしまうほどに不確かなものなのだ。

私たちのしあわせは、所詮こんな、お部屋の電球を変えるくらいのものなのだ、とこっそり自分に言い聞かせてみましたが、

娘が「私」になる契機がないわけではない。「電球」交換ていどの「しあわせ」かもしれないが……。しかし、

そんなにわびしい気も起らず、かえってこのつつましい電燈をともした私たち一家が、ずいぶん綺麗な走馬灯のような気がしてきて、ああ、覗くなら覗け、私たち親子は、美しいのだ、と庭に鳴く虫にまでも知らせてあげたい静かなよろこびが、胸にこみあげて来たのでございます。

「わびしい」「私」に「私」は堪えられない。契機、チャンスはそこにあったかもしれないのに、娘はふたたび、次の、別の、「美し」さと「よろこび」を見つけてしまう。

それは、明晰に照らす「あかるい電燈」ではなく、「走馬燈」のように明かりが定まらない「燈籠」である。「美し」さと「よろこび」をめぐって、ゆらゆら揺れて定まるところを知らない。この、ほの明かりが彼女の独白を満たしていると言ってもいい。

しかし、これは「教育」がなく「環境」が悪く「学問」を身につけていない所為だろうか。
こんにちでも、成功者教育家啓発家ほか頭の良いひとびとは、この娘の愚かさを嗤うだろう。「万引にも三分の理、変質の左翼少女滔々と美辞麗句」。そのとおりだと。

けれども、娘にとって意識化されない、それ自体困難な「私」をめぐる悲劇は、「教育」「環境」「学問」で超克可能なのかは疑わしい。

「水野」という男を満たしているのは、「教育」「環境」「学問」である。それが男の「私」を満たすに足るというなら、なぜ「僕たちは、いまに偉くなる」などと言うのか? 男の「私」は功利的な立身出世主義に満たされているだけのことだ。

彼女「さき子」の愚かさより、はるかに陋劣なだけのことだ。

女が独りで語ること

現在であったら、バカな女、を小説の形式とはいえ男性作家が書いたなら批判は免れない。おそらく非常に厳しい批判にさらされるだろう。
もとより、現実に存在しない作中に偽造された「女」である。
前回『安愚楽鍋』に登場した戯作の「娼妓」同様、男から見た幻想によって生み出されたものだ。

しかも、作中で語り手が「女」であることを独白しないとこの文体は機能しないのである。こころみに、全編「男」のつもりで読むと一応それでも読めてしまう。かろうじて「ございます」「です」「ます」の敬語によって、それらしさは醸し出されるが、読者が協力して「女」を読まなければ、彼女は「女」として存在できない。幻想の「女」は作者と読者との共犯が生み出している。

もちろん、好意的にみれば、男の独白する私小説の破産を狙った太宰治の文学的挑戦、とも受け取れる。これだけ多くの女性による独白形式を採用していることは、太宰治論の一角をなしているのだろうけれど、筆者はそこまで知らない。

それより、創作上の効果のために、この文体に閉じ込められた彼女と彼女たちを思うばかりだ。戯作から始まったその開放は、たとえば山田詠美の登場を待たなければならない。読者諸氏が知っているように、彼女と彼女たちはそれまで待ちつづけることになるのである。

……ちなみに、お気づきかはわからないが、筆者が男である保証もどこにもない。あと、筆者、太宰治ペンネームを略さず書いた。太宰は、とか恥ずかしくて書けない。まあ、ブンガクっぽいけどね。太宰は、とか。

 

 

 

*1:太宰治『女生徒』角川文庫クラシックスより引用。以下引用も同じ。

仮名垣魯文『安愚楽鍋』娼妓の語りから太宰治へ

明治初年の文学が、と書き出した時点で、だいぶ読むひとを遠ざけている。
インターネットの特徴だが、好きなものだけ集まる仕組みなので、興味ないことは日々に疎い。村上春樹と書いたらずいぶん読まれるが、成島柳北と書いたらその数はぐっと減る。しかし、堀辰雄と書けばまた大いに増えるから、明治初年という時代に固有の読みにくさが原因かもしれない。

明治初年の文学とジャンル

まず時代が遠い。そして一般的に文学と思われているものと様相が異なる。

明治文学の研究者、前田愛の著作*1によると、

A)漢学、国学、和歌、歴史、思想的著作

B)戯曲、戯作、俳諧、川柳、狂歌、狂文

この時期の文学は、大まかに上のような分け方ができ、さらに、A)を「雅の文学」、B)を「俗の文学」とわけることができる。そして、「漢学」から順にヒエラルキーをなしている。

上記の段階から、「戯作」を抜き出して、これを「小説」則ち「文学」へと昇華発展させようというのが逍遥の『小説神髄』で、以降、この「小説」への極端な偏重が、近代文学の歴史をなしている。研究者ならともかく、筆者のようなただの読者にとっては、過去に向かってかけられたバイアス、偏りと歪みのせいで、ひどく読みにくい。

文学ってこんな感じ、という感じが通用しないからである。

逆にいえば、露鷗や漱石、あるいは一葉あたりまで時代を下ると、こんな感じ、でとりあえずは読める。今でも読める。それは、明治後半からの、近代文学という大きな括りがいまだに続いている証拠でもある。もうすこしいえば、その制度性は明治後半に確立して、そこから免れることなく今に至っているとも言えるだろう。

そして、江戸期の文学でもなく、近代文学でもない、端境期となる明治初年は、前後の時代の要素が入り混じって、いささか混沌としているように見えるわけだ。制度性という言い方を続ければ、この混沌は政治と社会のそれで、制度性の空白地帯に、明治初年の文学はある。混沌といえば混沌。自由といえば自由。

ただ、視点の基準を、明治初年のほうに置くと、「小説」のほうが異質であることは言うまでもない。

仮名垣魯文安愚楽鍋

魯文は、幕末すでに一定の成功をおさめていた。*2しかし、維新とともに後援者を失った。パトロンがいなければ、恒産のない魯文はたちまち窮すほかなかったが、明治3年(1870)に『西洋道中膝栗毛』を刊行。もともと、瓦版や流行歌をつぎつぎと書き飛ばした「際物作家」であったから、他の戯作者たちが廃業や転職してゆくなで、いちはやく時流に乗れたものであろう。

もちろん、戯作者としての才覚と、知識は別物であるから、『西洋道中』の記述はだいぶ怪しい。

そして翌明治4年(1871)に刊行されたのが『牛店雑談 安愚楽鍋』である。

膝栗毛ものの形式から転じて、式亭三馬の「浮世床」のように、そこに集まるひとびとの会話を集約したスタイルと、同じく三馬の「古今百馬鹿」に見える或る典型を描き出す手法で書かれている。

西洋好(せいようずき)、堕落個(なまけもの)、鄙武士(いなかぶし)、野幇間(のだいこ)、諸工人(しょくにん)、生文人(なまぶんじん)……

※『牛肉雑談 安愚楽鍋*3初編より引用

ぜんぶ引用するのはやめておくが、牛鍋屋に居合わせたという設定で、これらの典型化された人物がそれぞれ、時世と自身について語る。

衣は骭(かん)に至りイ、袖はア腕(わん)に至るウ腰間秋水(ようかんしゅうすい)。鉄を断(きる)べしイ。人触(ふる)れば人を斬(きり)。馬触るれば馬を切るウ。十八交(まじわり)をむすぶ健児(けんじ)の社(しゃ)ア。*4

野暮と田舎者を笑うのはお決まりだが、今からみれば別に面白くはない。悪ふざけが過ぎて、却って笑いに転化する現実らしさのバランスを失っているようにも見える。

これじゃ、あんまりだ。

「娼妓」の語り

そんななかで以外に面白いのは

娼妓(おいらん)の密肉食(あくものぐい)*5

歌妓(げいしゃ)の坐敷話(ざしきばなし)*6

の二編。

どちらも今でいえば水商売の女性たちで、仕事の「愚痴」を相手に語っている。とりあえず、「娼妓の密肉食」から引用。

ネエ、おはねどん、お前の前だが伊賀はんという人もあんまり卑怯な人じゃないか。この節、上方から芸子(げいこ)とか舞子(まいこ)とかが訪ねて来たので、わちきの処へはぱったり足がとまった、そのはずじゃああるけれど、切々と来るじぶんにゃあ、ヤレ身請(みうけ)をしようの、親元へ掛け合って貰い引(ひき)をするのと、無理往生にわちきの体へ疵を付けたり証文をかかせたりしたくせに、樽漬けが出来たから、モウ用はねえというイタチの道を切ったようでサ。今度焼け出されたから尋ねて行きゃ、留守を使って中宿(なかやど)の二階へ上げっぱなしの客人を見たように、さんざんぱら待たせた挙句が、取り込んでいて会われないから、いずれ茶屋迄訪ねるからとサ。*7

「愚痴」という語りが、はしばしに娼妓の人生や背景をのぞかせて、まるで「小説」のようになっている。

おい木村さん信さん寄っておいでよ、お寄りといったら寄っても宜(い)ではないか、又素通りで二葉(ふたば)やへ行く気だろう、押かけて行って引ずって来るからそう思いな、ほんとにお湯(ぶう)なら帰りにきっとよっておくれよ*8

一葉の『にごりえ』冒頭である。

不思議なことだが、「女性の語り」になった途端、「近代文学」が発動したかのように見える。

女性の独白体形式

たとえば太宰治は「女性の語り」による独白体形式の小説を数多く残している。また谷崎潤一郎の『盲目物語』。調べればほかにもたくさんあるだろう。これらは、おおく、文学史家をして古典王朝文学に起源を求めしめた。曰く『土佐日記』『とはずがたり』しかしか。

しかし、作家や文学史家の自意識とは別に、起源はそんなに古くないだろう。

小説的文学観で文学史をむりやり説明しようとして、却って足元を見失っているようにも見える。

冒頭挙げた文学ジャンルの一覧にしたがえば、王朝文学は「雅の文学」、『安愚楽鍋』は言うまでもなく「俗の文学」になる。

小説神髄』以来、「戯作」を卑しみ、その卑陋からの離脱と離陸を、近代文学=小説はかかげたし、またそれは成功したように考えられているが、その断絶よりずっと多くの連続を残していると見た方がよい。

このあたりの消息は、柳田泉はじめ明治文学の研究者がすでに論じていることであるから、筆者の発見でもなんでもない。

筆者の思う不思議は、こうした「女性の語り」の歴史的な持続性、その息の長さである。これはジェンダー論を持ち出すまでもなく、この「女」は男性が抑圧して作り出した幻想である。そして、ここにおいては「幻想」の最たる「娼妓」の語りであることを見逃してはなるまい。

「戯作の娼妓」の「語り」が発生とは口が裂けても言えないから、王朝文学を持ち出したのかと勘繰りたくなるが、たわむれである。いや、どうだろう。

さしあたって、文学と戯作は思った以上に距離が近い、ということを一先ず確認したところで結論とし、終わりにする。

 

 

 

*1:前田愛著作集 第1巻』筑摩書房「近世から近代へ 愛山・透谷の文学史をめぐって」参考

*2:参考:『明治文學全集1』筑摩書房及び『増補改訂 新潮日本文学辞典』新潮社

*3:『明治文學全集1』筑摩書房

*4:安愚楽鍋』初編「鄙武士(いなかぶし)の獨盃(ひとりのみ)」筆者、適宜漢字を宛て行った。仮名遣いも改めた。

*5:安愚楽鍋』二編上

*6:安愚楽鍋』二編下

*7:安愚楽鍋』二編上「娼妓(おいらん)の密肉食(あくものぐい)」筆者、適宜漢字を宛て行った。仮名遣いも改めた。

*8:樋口一葉にごりえ新潮文庫より引用。筆責で仮名遣いは改めた。

堀辰雄『風立ちぬ』構造の向こうへ

感想、序言に代えて

読み終えて、思ったのは江藤淳のことである。
江藤淳といって若い方にどれくらい通じるのか不安になるけれども、思い出したのは『昭和の文人』にある堀辰雄評ではなくて、『妻と私』のほうである。まえに大塚英志が確かそれに触れていたのを思い出した。
唾棄、といってもいいくらいの激しい言葉で批判をくりひろげていた江藤淳が、けっきょく江藤淳じしんの『風立ちぬ』を書いて、そして自殺したことにあのとき、生きる人間の蕭然としたものを感じた。蕭然、とは、雨に濡れた小石のように人間はさびしいということ。そうした意味では、江藤淳にとって「いざ生きめやも」は誤訳ではなかったのかもしれない。さあ、それでも生きられるだろうか? いや、……。

文庫本の解説をみると、堀辰雄が毛嫌いされる一般イメージが列記されている。

曰く「素敵な夢のようなもの」「現実であるには純粋すぎるもの」「快い逃避の文学」「雑駁な社会には生きていなかった」等等*1

はるか後年の村上春樹に、そのまま当てはまりそうな批判の理由があげられている。

もちろん、中村真一郎はそうではないことを解説のなかで、大いに弁護している。

風立ちぬ』年譜

風立ちぬ』成立の年表*2である。簡潔にしたつもりだが、却って読みにくいかもしれない。

昭和6年(1931)満州事変

昭和10年(1935)7月、許嫁と共に富士見の療養所に入る。12月矢野綾子死去。美濃部達吉天皇機関説の問題化。

昭和11年(1936)12月「序曲」「風立ちぬ『改造』2.26事件。ロンドン軍縮会議脱退。

昭和12年(1937)2月、喀血し鎌倉の額田保養院に入院。1月「冬」文藝春秋』 3月「春」(旧題、「婚約」)『新女苑』盧溝橋事件、日中戦争

昭和13年3月(1938)「死のかげの谷」『新潮』。国家総動員法成立。ミュンヘン会議。

昭和14年(1939)ドイツ軍ポーランド侵攻

昭和16年(1941)太平洋戦争。

昭和20年(1945)敗戦

日本の15年戦争下に『風立ちぬ』は書かれた。そういう意味では、「戦争文学」ではないく「戦時下」文学である。

本作を読み終わってからこの年譜を起こしたのだが、年号をのぞけば大して近頃と変わらない。そんなことを思いながら書いた。

作品成立の年表と、作品じたいを見比べるとわかるが、

「序曲」「風立ちぬ」「冬」「春」「死のかげの谷」(発表順)

「序曲」「春」風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」(構成順)

書かれた順番と構成は異なる。発表順で読んだばあいと、構成順のばあいとで、読み方はまるで違ってくるが、並び順は、構成上の要求とひとまずは言えるだろう。もちろん、旧題「婚約」を「春」と変えて入れ替えたあたりには傷ましさを覚えるが……。

物語構造論

とはいえ、先に結論を言うと、この作品は、「風立ちぬ」章をピークとした〈往きて帰る〉物語構造で書かれている。とうぜんながら、私小説に分類される要素、許嫁の死、があるから、そのようにも読めるのだが、物語として読むなら、いろいろと意味合いが変わってくる。

【物語構造】

「序曲」日常の世界

「春」旅立ちへの誘い

風立ちぬ」関門を越える、非日常の世界

「冬」危険な場所への接近、最大の試練

「死のかげの谷」復活、帰還、日常の世界

大塚英志の著作を参考にした。例えば『ストーリーメーカー』アスキー新書、他。

プルーストリルケの影響が指摘されているが、堀辰雄が広範な読者を獲得したのはそれらのせいではないだろう。だいいち、一般の読者は『失わし時を求めて』なんて読んでいない。読んだとしても、いつまでたっても「スワン家のほうへ」行ったきりでそれより先に進みやしない。

「構造」なら、年齢・人種・性別・教養を問わず開かれている。大塚英治が再三、執拗にこの「構造」をめぐる著作を刊行しているのも、そこに含まれる民主性と平等性を見ているからだろう。

作者にとって、「私」に起きたできごと、許嫁との別れ、を私小説で書くのではなく、物語という確固とした形式にのっとって書いたのは、横溢してとめどもない「私」をつなぎとめるためだろう。そしてそれが今度は読者にとって、物語の形式によって読むことができるのである。

それが果たしてうまく行ったのかどうか。

堀辰雄村上春樹

結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みに過ぎないからだ。

村上春樹風の歌を聴け』文春文庫より引用

物語形式の援用は、村上春樹批判のひとつであるが、上記の引用のように、それ自体への懐疑があることを批判者たちは見ない。自己韜晦、そらとぼけのポーズだと思われている。物語構造への懐疑は、堀辰雄にも、村上春樹ノルウェイの森』にも十分すぎるほど、ある。だから、解決したようで、何も解決しない。私小説のような虚実のさかいを失った創作はとうてい認められないが、物語の不可能性もじゅうぶん認識している。

「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変わるから他(ほか)にも自分にも解からなくなるだけの事さ。*3

風立ちぬ』においても末尾、

「おれは人並以上に幸福でもなければ、又不幸でもないようだ。」

堀辰雄風立ちぬ・美しい村』新潮文庫より引用

と述懐される主人公の独白は、「ささやかな試み」と言ってよいだろう。

これはかっこうつけのポーズなのか。

これもどこかで大塚英治が書いていたはずだが、国家や制度の抑圧が強くはたらくなかで、「私」が「私」と「私たち」に流されるのではなく、物語とその構造に拠って、辛うじて凌いでゆく、その凌ぎ方がそれを援用させているのではないか。国家や制度のまんなかで、批判と批評を行い、「公」であろうと意志した江藤淳が、「私」の崩壊にたえかねたことと表裏しているのではないか。

もちろん、物語を経て、得るものがあったのか、あるいは失うものしかなかったかは、分からない。

けれども、それでも生きることを選択するとは、ひとつひとつの、物語のエンドマークをきちんと打つということであり、「解決しない」物語を引き受けて、死ぬまで先へと進むことだろう。

いかなる物語もエンドマークをおいて終わる。そして現実へ帰ってゆく。鳥は巣に帰らなければならないし、犬ですら犬小屋で眠りにつく。ペンは置かれ、本はそっと閉じられる。小説とは、そのために存在するのではないか?

「自己療養へのささやかな試み」として。

風立ちぬ

風立ちぬ』において、この「療養」は言うまでもなく果たされなかった。節子は失われたし、主人公の私も同様に彼女を失い、日常への帰還というにはあまりに辺境な果てに帰りつく。癒される、その予感はほのめかされてはいるが…。

いっぽうで「現実」の背景には、300万人以上の同胞を殺し、それ以上の人類同胞を殺しに殺した戦火が燃えているはずなのだが、それは丁寧に取り除かれている。これは「現実逃避」であろうか。戦争文学が必ずしも戦争を描けているわけではないように、「現実」を書けばそれが現れるわけではないだろう。

ひとにある「現実」はそのひとだけのものだ。みんなと同じ「現実」を強要することを、しばしば権力や世論は行ってきた。今でも変わらない。

物語構造のなかに収められた『風立ちぬ』は主人公にとっての「現実」である。

風立ちぬ』という小説が書かれたことは、堀辰雄にっての「現実」である。

他人が他人に強いた「現実」ではない。

 

筆者は、宮崎駿のくだんのアニメーション映画をみていないのだが、描こうとしたことはなんなく想像できそうだ。ずいぶん悲壮な贈り物なのではないか。

 

しかし、物語とは何ぞ。みんな知って享受して、エンターテインメントしているそれが何なのか。筆者はわからないでいる。書いてみたら余計にわからない。愚かとは情けのないものである。

 

 

 

 

 

*1:堀辰雄風立ちぬ・美しい村』新潮文庫より引用。以下引用も断りない限り同書による

*2:堀辰雄風立ちぬ・美しい村』新潮文庫解説、並びに『日本史年表・地図』吉川弘文館を参考

*3:夏目漱石『道草』新潮文庫より引用